源氏物語
松風
紫式部
與謝野晶子訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)弾《ひ》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|挨拶《あいさつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
−−

[#地から3字上げ]あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴
[#地から3字上げ]をとればおなじ音を弾《ひ》く  (晶子)

 東の院が美々しく落成したので、花散里《はなちるさと》といわれていた夫人を源氏は移らせた。西の対から渡殿《わたどの》へかけてをその居所に取って、事務の扱い所、家司《けいし》の詰め所なども備わった、源氏の夫人の一人としての体面を損じないような住居《すまい》にしてあった。東の対には明石《あかし》の人を置こうと源氏はかねてから思っていた。北の対をばことに広く立てて、かりにも源氏が愛人と見て、将来のことまでも約束してある人たちのすべてをそこへ集めて住ませようという考えをもっていた源氏は、そこを幾つにも仕切って作らせた点で北の対は最もおもしろい建物になった。中央の寝殿《しんでん》はだれの住居《すまい》にも使わせずに、時々源氏が来て休息をしたり、客を招いたりする座敷にしておいた。
 明石へは始終手紙が送られた。このごろは上京を促すことばかりを言う源氏であった。女はまだ躊躇《ちゅうちょ》をしているのである。わが身の上のかいなさをよく知っていて、自分などとは比べられぬ都の貴女《きじょ》たちでさえ捨てられるのでもなく、また冷淡でなくもないような扱いを受けて、源氏のために物思いを多く作るという噂《うわさ》を聞くのであるから、どれだけ愛されているという自信があってその中へ出て行かれよう、姫君の生母の貧弱さを人目にさらすだけで、たまさかの訪問を待つにすぎない京の暮らしを考えるほど不安なことはないと煩悶《はんもん》をしながらも明石は、そうかといって姫君をこの田舎《いなか》に置いて、世間から源氏の子として取り扱われないような不幸な目にあわせることも非常に哀れなことであると思って、出京は断然しないとも源氏へ答えることはできなかった。両親も娘の煩悶するのがもっともに思われて歎息《たんそく》ばかりしていた。入道夫人の祖父の中務卿《なかつかさきょう》親王が昔持っておいでになった別荘が嵯峨《さが》の大井川のそばにあって、宮家の相続者にしかとした人がないままに別荘などもそのままに荒廃させてあるのを思い出して、親王の時からずっと預かり人のようになっている男を明石へ呼んで相談をした。
「私はもう京の生活を二度とすまいという決心で田舎へ引きこもったのだが、子供になってみるとそうはいかないもので、その人たちのためにまた一軒京に家を持つ必要ができたのだが、こうした静かな所にいて、にわかに京の町中の家へはいって気も落ち着くものでないと思われるので、古い別荘のほうへでもやろうかと思う。そちらで今まで使っているだけの建物は君のほうへあげてもいいから、そのほかの所を修繕して、とにかく人が住めるだけの別荘にこしらえ上げてもらいたいと思うのだが」
 と入道が言った。
「もう長い間持ち主がおいでにならない別荘になって、ひどく荒れたものですから、私たちは下屋《しもや》のほうに住んでおりますが、しかし今年の春ごろから内大臣さんが近くへ御堂《みどう》の普請をお始めになりまして、あすこはもう人がたくさん来る所になっておりますよ、たいした御堂ができるのですから、工事に使われている人数だけでもどんなに大きいかしれません。静かなお住居《すまい》がよろしいのならあすこはだめかもしれません」
「いや、それは構わないのだ。というのは内大臣家にも関係のあることでそこへ行こうとしているのだからね。家の中の設備などは追い追いこちらからさせるが、まず急いで大体の修繕のほうをさせてくれ」
 と入道が言う。
「私の所有ではありませんが、持っていらっしゃる方もなかったものですから、一軒家のような所を長く私が守って来たのです。別荘についた田地なども荒れる一方でしたから、お亡《な》くなりになりました民部大輔《みんぶだゆう》さんにお願いして、譲っていただくことにしましてそれだけの金は納めたのでした」
 預かり人は自身の物のようにしている田地などを回収されないかと危うがって、権利を主張しておかねばというように、鬚《ひげ》むしゃな醜い顔の鼻だけを赤くしながら顎《あご》を上げて弁じ立てる。
「私のほうでは田地などいらない。これまでどおりに君は思っておればいい。別荘その他の証券は私のほうにあるが、もう世捨て人になってしまってからは、財産の権利も義務も忘れてしまって、留守居《るすい》料も払ってあげなかったが、そのうち精算してあげるよ」
 こんな話
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング