苦しく存じました二葉《ふたば》の松もいよいよ頼もしい未来が思われます日に到達いたしましたが、御生母がわれわれ風情《ふぜい》の娘でございますことが、御幸福の障《さわ》りにならぬかと苦労にしております」
 などという様子に品のよさの見える婦人であったから、源氏はこの山荘の昔の主《あるじ》の親王のことなどを話題にして語った。直された流れの水はこの話に言葉を入れたいように、前よりも高い音を立てていた。

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住み馴《な》れし人はかへりてたどれども清水《しみづ》ぞ宿の主人《あるじ》がほなる
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 歌であるともなくこう言う様子に、源氏は風雅を解する老女であると思った。

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「いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人《あるじ》や面《おも》変はりせる
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 悲しいものですね」
 と歎息《たんそく》して立って行く源氏の美しいとりなしにも尼君は打たれて茫《ぼう》となっていた。
 源氏は御堂《みどう》へ行って毎月十四、五日と三十日に行なう普賢講《ふげんこう》、阿弥陀《あみだ》、釈迦《しゃか》の念仏の三昧《さんまい》のほかにも日を決めてする法会《ほうえ》のことを僧たちに命じたりした。堂の装飾や仏具の製作などのことも御堂の人々へ指図《さしず》してから、月明の路《みち》を川沿いの山荘へ帰って来た。
 明石の別離の夜のことが源氏の胸によみがえって感傷的な気分になっている時に女はその夜の形見の琴を差し出した。弾《ひ》きたい欲求もあって源氏は琴を弾き始めた。まだ絃《いと》の音《ね》が変わっていなかった。その夜が今であるようにも思われる。

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契りしに変はらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや
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 と言うと、女が、

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変はらじと契りしことを頼みにて松の響に音《ね》を添へしかな
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 と言う。こんなことが不つりあいに見えないのは女からいえば過分なことであった。明石時代よりも女の美に光彩が加わっていた。源氏は永久に離れがたい人になったと明石を思っている。姫君の顔からもまた目は離せなかった。日蔭《ひかげ》の子として成長していくのが、堪えられないほど源氏はかわいそうで、これを二条の院へ引き取ってできる限りにかしずいてやることにすれば、成長後の肩身の狭さも救われることになるであろうとは源氏の心に思われることであったが、また引き放される明石の心が哀れに思われて口へそのことは出ずにただ涙ぐんで姫君の顔を見ていた。子心にはじめは少し恥ずかしがっていたが、今はもうよく馴《な》れてきて、ものを言って、笑ったりもしてみせた。甘えて近づいて来る顔がまたいっそう美しくてかわいいのである。源氏に抱かれている姫君はすでに類のない幸運に恵まれた人と見えた。
 三日目は京へ帰ることになっていたので、源氏は朝もおそく起きて、ここから直接帰って行くつもりでいたが、桂の院のほうへ高官がたくさん集まって来ていて、この山荘へも殿上役人がおおぜいで迎えに来た。源氏は装束をして、
「きまりの悪いことになったものだね、あなたがたに見られてよい家《うち》でもないのに」
 と言いながらいっしょに出ようとしたが、心苦しく女を思って、さりげなく紛らして立ち止まった戸口へ、乳母《めのと》は姫君を抱いて出て来た。源氏はかわいい様子で子供の頭を撫《な》でながら、
「見ないでいることは堪えられない気のするのもにわかな愛情すぎるね。どうすればいいだろう、遠いじゃないか、ここは」
 と源氏が言うと、
「遠い田舎の幾年よりも、こちらへ参ってたまさかしかお迎えできないようなことになりましては、だれも皆苦しゅうございましょう」
 など乳母は言った。姫君が手を前へ伸ばして、立っている源氏のほうへ行こうとするのを見て、源氏は膝《ひざ》をかがめてしまった。
「もの思いから解放される日のない私なのだね、しばらくでも別れているのは苦しい。奥さんはどこにいるの、なぜここへ来て別れを惜しんでくれないのだろう、せめて人心地《ひとごこち》が出てくるかもしれないのに」
 と言うと、乳母は笑いながら明石の所へ行ってそのとおりを言った。女は逢《あ》った喜びが二日で尽きて、別れの時の来た悲しみに心を乱していて、呼ばれてもすぐに出ようとしないのを源氏は心のうちであまりにも貴女《きじょ》ぶるのではないかと思っていた。女房たちからも勧められて、明石《あかし》はやっと膝行《いざ》って出て、そして姿は見せないように几帳《きちょう》の蔭《かげ》へはいるようにしている様子に気品が見えて、しかも柔らかい美しさのあるこの人は内親王と言ってもよいほどに気高《けだか》く見えるのである。源氏は几帳
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