かに、御自身の御代《みよ》の宮廷にあったはなやかな儀式などをお描かせになった絵巻には、斎宮《さいぐう》発足の日の大極殿《だいごくでん》の別れの御櫛《みぐし》の式は、御心《みこころ》に沁《し》んで思召されたことなのであったから、特に構図なども公茂画伯《きんもちがはく》に詳しくお指図《さしず》をあそばして製作された非常にりっぱな絵もあった。沈《じん》の木の透かし彫りの箱に入れて、同じ木で作った上飾りを付けた新味のある御贈り物であった。御|挨拶《あいさつ》はただお言葉だけで院の御所への勤務もする左近の中将がお使いをしたのである。大極殿の御輿《みこし》の寄せてある神々しい所に御歌があった。

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身こそかくしめの外《ほか》なれそのかみの心のうちを忘れしもせず
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 と言うのである。返事を差し上げないこともおそれおおいことであると思われて、斎宮の女御は苦しく思いながら、昔のその日の儀式に用いられた簪《かんざし》の端を少し折って、それに書いた。

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しめのうちは昔にあらぬここちして神代のことも今ぞ恋しき
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 藍《あい》色の唐紙に包んでお上げしたのであった。院はこれを限りもなく身に沁《し》んで御覧になった。このことで御位《みくらい》も取り返したく思召した。源氏をも恨めしく思召されたに違いない。かつて源氏に不合理な厳罰をお加えになった報いをお受けになったのかもしれない。院のお絵は太后の手を経て弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》のほうへも多く来ているはずである。尚侍《ないしのかみ》も絵の趣味を多く持っている人であったから、姪《めい》の女御のためにいろいろと名画を集めていた。
 定められた絵合わせの日になると、それはいくぶんにわかなことではあったが、おもしろく意匠をした風流な包みになって、左右の絵が会場へ持ち出された。女官たちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは清涼殿《せいりょうでん》のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の紫檀《したん》の箱に蘇枋《すおう》の木の飾り台、敷き物は紫地の唐錦《からにしき》、帛紗《ふくさ》は赤紫の唐錦である。六人の侍童の姿は朱色の服の上に桜襲《さくらがさね》の汗袗《かざみ》、袙《あこ
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