陽師《おんみょうじ》を雇って源氏は禊《はら》いをさせた。船にやや大きい禊いの人形を乗せて流すのを見ても、源氏はこれに似た自身のみじめさを思った。
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知らざりし大海の原に流れ来て一方にやは物は悲しき
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と歌いながら沙上《しゃじょう》の座に着く源氏は、こうした明るい所ではまして水ぎわだって見えた。少し霞《かす》んだ空と同じ色をした海がうらうらと凪《な》ぎ渡っていた。果てもない天地をながめていて、源氏は過去未来のことがいろいろと思われた。
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八百《やほ》よろづ神も憐《あは》れと思ふらん犯せる罪のそれとなければ
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と源氏が歌い終わった時に、風が吹き出して空が暗くなってきた。御禊《みそぎ》の式もまだまったく終わっていなかったが人々は立ち騒いだ。肱笠雨《ひじがさあめ》というものらしくにわか雨が降ってきてこの上もなくあわただしい。一行は浜べから引き上げようとするのであったが笠を取り寄せる間もない。そんな用意などは初めからされてなかった上に、海の風は何も何も吹き散らす。夢中で家のほうへ走り出すころに、海のほうは蒲団《ふとん》を拡《ひろ》げたように腫《ふく》れながら光っていて、雷鳴と電光が襲うてきた。すぐ上に落ちて来る恐れも感じながら人々はやっと家に着いた。
「こんなことに出あったことはない。風の吹くことはあっても、前から予告的に天気が悪くなるものであるが、こんなににわかに暴風雨になるとは」
こんなことを言いながら山荘の人々はこの天候を恐ろしがっていたが雷鳴もなおやまない。雨の脚《あし》の当たる所はどんな所も突き破られるような強雨《ごうう》が降るのである。こうして世界が滅亡するのかと皆が心細がっている時に、源氏は静かに経を読んでいた。日が暮れるころから雷は少し遠ざかったが、風は夜も吹いていた。神仏へ人々が大願を多く立てたその力の顕《あら》われがこれであろう。
「もう少し暴風雨が続いたら、浪《なみ》に引かれて海へ行ってしまうに違いない。海嘯《つなみ》というものはにわかに起こって人死《ひとじ》にがあるものだと聞いていたが、今日のは雨風が原因になっていてそれとも違うようだ」
などと人々は語っていた。夜の明け方になって皆が寝てしまったころ、源氏は少しうとうととしたかと思うと、人間でない姿の者が来て、
「なぜ王様が召していらっしゃるのにあちらへ来ないのか」
と言いながら、源氏を求めるようにしてその辺を歩きまわる夢を見た。さめた時に源氏は驚きながら、それではあの暴風雨も海の竜王《りゅうおう》が美しい人間に心を惹《ひ》かれて自分に見入っての仕業《しわざ》であったと気がついてみると、恐ろしくてこの家にいることが堪えられなくなった。
底本:「全訳源氏物語 上巻」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年8月10日改版初版発行
1994(平成6)年12月20日56版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月5日71版を使用しました。
入力:上田英代
校正:砂場清隆
2003年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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