らるる綱手縄《つなてなは》たゆたふ心君知るらめや

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音楽の横好きをお笑いくださいますな。
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 と書かれてあるのを、源氏は微笑しながらながめていた。若い娘のきまり悪そうなところのよく出ている手紙である。

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心ありてひくての綱のたゆたはば打ち過ぎましや須磨の浦波

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漁村の海人《あま》になってしまうとは思わなかったことです。
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 これは源氏の書いた返事である。明石《あかし》の駅長に詩を残した菅公のように源氏が思われて、五節は親兄弟に別れてもここに残りたいと思うほど同情した。
 京では月日のたつにしたがって光源氏のない寂寥《せきりょう》を多く感じた。陛下もそのお一人であった。まして東宮は常に源氏を恋しく思召《おぼしめ》して、人の見ぬ時には泣いておいでになるのを、乳母《めのと》たちは哀れに拝見していた。王命婦《おうみょうぶ》はその中でもことに複雑な御同情をしているのである。入道の宮は東宮の御地位に動揺をきたすようなことのないかが常に御不安であった。源氏までも失脚してしまった今日では、ただただ心細くのみ思っておいでになった。源氏の御弟の宮たちそのほか親しかった高官たちは初めのころしきりに源氏と文通をしたものである。人の身にしむ詩歌が取りかわされて、それらの源氏の作が世上にほめられることは非常に太后のお気に召さないことであった。
「勅勘を受けた人というものは、自由に普通の人らしく生活することができないものなのだ。風流な家に住んで現代を誹謗《ひぼう》して鹿《しか》を馬だと言おうとする人間に阿《おもね》る者がある」
 とお言いになって、報復の手の伸びて来ることを迷惑に思う人たちは警戒して、もう消息を近来しなくなった。二条の院の姫君は時がたてばたつほど、悲しむ度も深くなっていった。東の対にいた女房もこちらへ移された初めは、自尊心の多い彼女たちであるから、たいしたこともなくて、ただ源氏が特別に心を惹《ひ》かれているだけの女性であろうと女王を考えていたが、馴《な》れてきて夫人のなつかしく美しい容姿に、誠実な性格に、暖かい思いやりのある人扱いに敬服して、だれ一人|暇《いとま》を乞《こ》う者もない。良い家から来ている人たちには夫人も顔を合わせていた。だれよりも源氏が愛している理由がわかったように彼女たちは思うのであった。
 須磨のほうでは紫の女王《にょおう》との別居生活がこのまま続いて行くことは堪えうることでないと源氏は思っているのであるが、自分でさえ何たる宿命でこうした生活をするのかと情けない家に、花のような姫君を迎えるという事はあまりに思いやりのないことであるとまた思い返されもするのである。下男や農民に何かと人の小言《こごと》を言う事なども居間に近い所で行なわれる時、あまりにもったいないことであると源氏自身で自身を思うことさえもあった。近所で時々煙の立つのを、これが海人《あま》の塩を焼く煙なのであろうと源氏は長い間思っていたが、それは山荘の後ろの山で柴《しば》を燻《く》べている煙であった。これを聞いた時の作、

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山がつの庵《いほり》に焚《た》けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人
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 冬になって雪の降り荒れる日に灰色の空をながめながら源氏は琴を弾《ひ》いていた。良清《よしきよ》に歌を歌わせて、惟光《これみつ》には笛の役を命じた。細かい手を熱心に源氏が弾き出したので、他の二人は命ぜられたことをやめて琴の音に涙を流していた。漢帝が北夷《ほくい》の国へおつかわしになった宮女の琵琶《びわ》を弾いてみずから慰めていた時の心持ちはましてどんなに悲しいものであったであろう、それが現在のことで、自分の愛人などをそうして遠くへやるとしたら、とそんなことを源氏は想像したが、やがてそれが真実のことのように思われて来て、悲しくなった。源氏は「胡角一声霜後夢《こかくいっせいそうごのゆめ》」と王昭君《おうしょうくん》を歌った詩の句が口に上った。月光が明るくて、狭い家は奥の隅々《すみずみ》まで顕《あら》わに見えた。深夜の空が縁側の上にあった。もう落ちるのに近い月がすごいほど白いのを見て、「唯是西行不左遷《ただこれにしへゆくさせんにあらず》」と源氏は歌った。

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何方《いづかた》の雲路にわれも迷ひなん月の見るらんことも恥《はづ》かし
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 とも言った。例のように源氏は終夜眠れなかった。明け方に千鳥が身にしむ声で鳴いた。

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友千鳥|諸声《もろごゑ》に鳴く暁は一人|寝覚《ねざ》めの床《とこ》も頼もし
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 だれもまだ起きた影がな
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