形はほのかで鳥が浮いているほどにしか見えぬ船で心細い気がするのであった。上を通る一列の雁《かり》の声が楫《かじ》の音によく似ていた。涙を払う源氏の手の色が、掛けた黒木の数珠《じゅず》に引き立って見える美しさは、故郷《ふるさと》の女恋しくなっている青年たちの心を十分に緩和させる力があった。

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初雁《はつかり》は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき
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 と源氏が言う。良清《よしきよ》、

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かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はそのよの友ならねども
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 民部大輔《みんぶたゆう》惟光《これみつ》、

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心から常世《とこよ》を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな
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 前右近丞《ぜんうこんのじょう》が、

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「常世《とこよ》出《い》でて旅の空なるかりがねも列《つら》に後《おく》れぬほどぞ慰む
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 仲間がなかったらどんなだろうと思います」
 と言った。常陸介《ひたちのすけ》になった親の任地へも行かずに彼はこちらへ来ているのである。煩悶《はんもん》はしているであろうが、いつもはなやかな誇りを見せて、屈託なくふるまう青年である。明るい月が出て、今日が中秋の十五夜であることに源氏は気がついた。宮廷の音楽が思いやられて、どこでもこの月をながめているであろうと思うと、月の顔ばかりが見られるのであった。「二千里外故人心《にせんりぐわいこじんのこころ》」と源氏は吟じた。青年たちは例のように涙を流して聞いているのである。
 この月を入道の宮が「霧や隔つる」とお言いになった去年の秋が恋しく、それからそれへといろいろな場合の初恋人への思い出に心が動いて、しまいには声を立てて源氏は泣いた。
「もうよほど更《ふ》けました」
 と言う者があっても源氏は寝室へはいろうとしない。

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見るほどぞしばし慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども
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 その去年の同じ夜に、なつかしい御調子で昔の話をいろいろあそばすふうが院によく似ておいでになった帝も源氏は恋しく思い出していた。「恩賜御衣今在此《おんしのぎょいいまここにあり》」と口ずさみながら源氏は居間へはいった。恩賜の御衣もそこにあるのである。

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憂《う》しとのみひとへに物は思ほえで左右にも濡《ぬ》るる袖《そで》かな
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 とも歌われた。
 このころに九州の長官の大弐《だいに》が上って来た。大きな勢力を持っていて一門郎党の数が多く、また娘たくさんな大弐ででもあったから、婦人たちにだけ船の旅をさせた。そして所々で陸を行く男たちと海の一行とが合流して名所の見物をしながら来たのであるが、どこよりも風景の明媚《めいび》な須磨の浦に源氏の大将が隠栖《いんせい》していられるということを聞いて、若いお洒落《しゃれ》な年ごろの娘たちは、だれも見ぬ船の中にいながら身なりを気に病んだりした。その中に源氏の情人であった五節《ごせち》の君は、須磨に上陸ができるのでもなくて哀愁の情に堪えられないものがあった。源氏の弾《ひ》く琴の音《ね》が浦風の中に混じってほのかに聞こえて来た時、この寂しい海べと薄倖《はっこう》な貴人とを考え合わせて、人並みの感情を持つ者は皆泣いた。大弐は源氏へ挨拶《あいさつ》をした。
「はるかな田舎《いなか》から上ってまいりました私は、京へ着けばまず伺候いたしまして、あなた様から都のお話を伺わせていただきますことを空想したものでございました。意外な政変のために御|隠栖《いんせい》になっております土地を今日通ってまいります。非常にもったいないことと存じ、悲しいことと思うのでございます。親戚と知人とがもう京からこの辺へ迎えにまいっておりまして、それらの者がうるそうございますから、お目にかかりに出ないのでございますが、またそのうち別に伺わせていただきます」
 というのであって、子の筑前守《ちくぜんのかみ》が使いに行ったのである。源氏が蔵人《くろうど》に推薦して引き立てた男であったから、心中に悲しみながらも人目をはばかってすぐに帰ろうとしていた。
「京を出てからは昔懇意にした人たちともなかなか逢《あ》えないことになっていたのに、わざわざ訪《たず》ねて来てくれたことを満足に思う」
 と源氏は言った。大弐への返答もまたそんなものであった。筑前守は泣く泣く帰って、源氏の住居《すまい》の様子などを報告すると、大弐をはじめとして、京から来ていた迎えの人たちもいっしょに泣いた。五節《ごせち》の君は人に隠れて源氏へ手紙を送った。

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琴の音にひきとめ
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