き込んでございまして、そこならばお涼しかろうと思います」
「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」
 と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、方角|除《よ》けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、
「父の伊予守――伊予は太守の国で、官名は介《すけ》になっているが事実上の長官である――の家のほうにこのごろ障《さわ》りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭い家なんですから失礼がないかと心配です」と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、
「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜がこわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳《きちょう》の後ろでいいのだからね」
 冗談《じょうだん》混じりにまたこう言わせたものである。
「よいお泊まり所になればよろしいが」
 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行《しのび》で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿《しんでん》の東向きの座敷を掃除《そうじ》させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度《したく》ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝《こ》ってできた住宅である。わざと田舎《いなか》の家らしい柴垣《しばがき》が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍《ほたる》がたくさん飛んでいた。源氏の従者たちは渡殿《わたどの》の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中《ちゅう》の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺《きぬず》れが聞こえ、若々しい、媚《なま》めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。初めその前の縁の格子《こうし》が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影《ほかげ》が、襖子《からかみ》の隙間《すきま》から赤くこちらへさしていた。源氏は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立って聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、源氏自身が話題にされているらしい。
「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。でもずいぶん隠れてお通いになる所があるんですって」
 こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。でも話はただ事ばかりであったから皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿《しきぶきょう》の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌などを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は思った。
 紀伊守が出て来て、灯籠《とうろう》の数をふやさせたり、座敷の灯《ひ》を明るくしたりしてから、主人には遠慮をして菓子だけを献じた。
「わが家はとばり帳《ちょう》をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつかないでは主人の手落ちかもしれない」
「通人でない主人でございまして、どうも」
 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥《かりね》のように横になっていた。随行者たちももう寝たようである。紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来《ゆきき》する中には伊予守の子もあった。何人かの中に特別に上品な十二、三の子もある。どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。
「ただ今通りました子は、亡《な》くなりました衛門督《えもんのかみ》の末の息子《むすこ》で、かわいがられていたのですが、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来のためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが
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