装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶《えん》な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二人の間はいつも、天に在《あ》っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音《ね》にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》はもう久しく夜の御殿《おとど》の宿直《とのい》にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更《ふ》けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
月も落ちてしまった。
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雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生《あさぢふ》の宿
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命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近衛府《うこんえふ》の士官が宿直者の名を披露《ひろう》するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。
朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫《ちょうき》の在《あ》った日も亡《な》いのちも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、帝王の御|朝餐《ちょうさん》として用意される大床子《だいしょうじ》のお料理などは召し上がらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎《なげ》いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、支那《しな》の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。
幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。その翌年立太子のことがあった。帝の思召《おぼしめ》しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、御心中をだれにもお洩《も》らしにならなかった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》も安心した。その時から宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に御仏《みほとけ》の来迎《らいごう》を求めて、とうとう亡《な》くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢《あ》った時とは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今まで始終お世話を申していた宮とお別れするのが悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。
それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初《ふみはじ》めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明《そうめい》さに帝はお驚きになることが多かった。
「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」
と帝はお言いになって、弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそのまま御簾《みす》の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵《きゅうてき》だってもこの人を見ては笑《え》みが自然にわくであろうと思われる美しい少童《しょうどう》でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えば不自然に聞こえるほどの天才児であった。
その時分に高麗人《こまうど》が来朝した中に、上手《じょうず》な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡《いまし》めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁《うだいべん》の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館《こうろかん》へおやりになった。
相人は不審そうに頭《こうべ》をたびたび傾けた。
「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違うようです」
と言った。弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期《ご》に臨んで珍しい高貴の相を持つ人に逢《あ》ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめていろいろなその国の贈り物をしたりした。
朝廷からも高麗《こま》の相人へ多くの下賜品があった。その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑《ふ》に落ちないのである。聡明《そうめい》な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。四品《しほん》以下の無品《むほん》親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終わるかしれぬのであるから、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われになった。上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某《なにがし》としようとお決めになった。
年月がたっても帝は桐壺の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝――帝《みかど》の従兄《いとこ》あるいは叔父君《おじぎみ》――の第四の内親王でお美しいことをだれも言う方で、母君のお后《きさき》が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍《ないしのすけ》は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
「お亡《かく》れになりました御息所《みやすどころ》の御|容貌《ようぼう》に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」
もしそんなことがあったらと大御心《おおみこころ》が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内《ごじゅだい》のことを懇切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御《にょご》が並みはずれな強い性格で、桐壺の更衣《こうい》が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩《かく》れになった。姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞きになって、
「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」
となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、兄君の兵部卿《ひょうぶきょう》親王もその説に御賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壺《ふじつぼ》である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壺の更衣に似ておいでになった。この方は御身分に批《ひ》の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶《おとし》める言葉を知らなかった。桐壺の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お傷手《いたで》が新女御の宮で癒《いや》されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。
源氏の君――まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。――はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壺《ふじつぼ》であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壺である。宮もお馴《な》れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壺の宮が出現されてその方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壺へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。
「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」
など帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉《もみじ》の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬《しっと》の対象は藤壺の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨《きゅうえん》も再燃して憎しみを持つことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王方の美を遠くこえた源氏の美貌《びぼう》を世間の人は言い現わすために光《ひかる》の君《きみ》と言った。女御として藤壺の宮の御|寵愛《ちょうあい》が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。
源氏の君の美しい童形《どうぎょう》をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳《とし》に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお指図《さしず》になった。前に東宮の御元服の式を紫宸殿《ししんでん》であげられた時の派手《はで》やかさに落とさず、その日官人たち
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