の負けたのを見て俄に独逸語の排斥を唱えたり、独逸の学問芸術までを罵ったりする軽佻な識者の多い日本に、昨日今日威勢の好い民主自由の思想に何の省慮も取らず共鳴する人の殖えて行くのは一概に嬉しいとはいわれません。
 私もウィルソンを尊敬する一人です。しかしウィルソンの唱えたが故に私は人道主義や民主主義に賛成する者ではないのです。貧弱ながら私の理想は私自身の建てたものです。それがウィルソンの偉大な理想と偶《たまた》ま似ている所があるというに過ぎません。そうして、私は今日の私に停滞していようとする者でなく、勿論ウィルソンの理想に低徊しているような閑人でもありません。明日はウィルソンが彼れの大きな道を選んで前進するように、私は私で自分の小さな道を選んで前進するでしょう。固《もと》より次第に激増する雑多な思想の混乱激動に出会うのは覚悟の前です。
 私は一つの譬喩《ひゆ》を茲《ここ》に挿《さしはさ》みます。巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓《ざっとう》へ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き
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