方《どちら》。』
『はあい。』
お末は白い前掛で手を拭き拭き出て来て、暗い六畳の半間《はんげん》の戸棚から子供達の寝間着の皆|入《はい》つた中位《ちうぐらゐ》な行李を引き出した。
『榮子さまは好《い》いので御座いますねえ、夏子さんとおねんねで御座いますか。』
『いいのですとも。』
榮子を抱いて来た夏子はくるくると着替へをさせてしまつた。そして末の敷いた蒲団へ小《ちいさ》い身体《からだ》を横に置いて、自身も肱枕をして、
『ねんねえ、ねん、ねん。』
と云つて居た。
『もう皆もお休みなさいよ。』
書斎の母親は座敷に遊んで居る子供達にかう声を掛けた。
『いつもまだまだ寝ないのよ、母《かあ》さん。』
滿は不平らしい声で云つた。
『でも、今朝《けさ》は早く起きたのでせう。だから。』
『はあい。』
と滿は答へた。
『もう眠いのよ。母《かあ》さん。』
母の傍へ来た花木がかう云つた。
『末や、お床《とこ》とつて。』
云ひながら茶の間へ滿が出て行くと、
『まだ早いぢやありませんか。』
とお照が云つた。
『母《かあ》さんが寝なさいつて云ふたんだあ。』
羽織の白い毛糸の紐の先を歯で噛みながら云つて居る此声を、もう起き過ぎたねぞろ声だと母親は此方《こちら》で思つて居た。泣くやうな目附を見るやうにも思つて居た。
『さうですか、末や床《とこ》をとつておやり。』
お照はまた、
『岸勇《きしゆう》と云ふのが好《い》いのでせう。』
と英也に話を向けた。
『うん、うん、うん、あれなんか好《い》いのだ。』
点頭《うなづ》きながら叔母にかう答へて英也は杯《さかづき》を取つた。畑尾がまた来たのと入り違へに南は榮子を寝かし附けた夏子を伴《つ》れて帰つて行つた。
『私ね、鞄なんかの鍵を無くしてしまつたのよ。神戸の宿屋でせうか。』
『さうですか、大変ですね。』
『ええ。』
と云つたが、鏡子は先刻《さつき》お照から大変だと云はれた時程ひしひし悪い事をしたと云ふ気も起《おこ》らないのであつた。
『三越へ電話で頼んで頂戴よ。彼処《あすこ》にはあるに決つて居るのだから。』
『ああさうですね。宜しうおます。』
それから昨日《きのふ》神戸でしかけた旅の話の続きのやうな話が長く続いた。鏡子は気に掛《かゝ》る良人《をつと》の金策の話を此人にするのに、今日《けふ》は未《ま》だ余り早すぎると下臆病《したおくびやう》な心が思はせるので、それは心にしまつて居た。
お照が出て来て、
『英さんがお先に失礼すると申して二階へ上《あが》りました。』
と云つた。
『さう。あなたも今日《けふ》はくたびれたでせうね。』
『いいえ。そんな事があるものですか。』
とお照は云つた。京女のその人は行《ゆき》届いた言葉で今度の礼を畑尾に云つて居た。
『また伺ひます。さやうなら。』
何時《いつ》もの風で畑尾はだしぬけにかう云つて帰つた。
『姉《ねえ》さん、私はね、初め四月《よつき》程の不経済な暮しをして居ました事を思ひますと姉《ねえ》さんに済まなくつて済まなくつて、仕方がないのですよ。』
お照は右の手首を左の手の掌《ひら》でぐりぐりと返しながら姉の顔を見て云つた。
『済んだことだわ。何とも思つて居やしませんよ。』
余り聞きたく無い事であつたから鏡子は口早《くちばや》に云つてしまつた。
『榮子の薬代も随分かかりますしね。』
『さうでせう。さうでせう。』
鏡子は少し自棄気味《やけぎみ》で云つた。
『榮子一人にどれだけお金の掛つたか知れませんよ。』
『あのう、巴里《パリイ》から一番おしまひに来た手紙は何時《いつ》でしたの。』
と鏡子が云つた。
『十日《とうか》程前でしたかしら。』
『見せて頂戴な。』
『はい。』
お照は本箱の上に載せた蝋色の箱の中から青い切手のはつた封筒の手紙を出した。手に取つて宛名を見ると、鏡子は思ひも及ばなかつた徴《かす》[#「徴《かす》」はママ]かな妬みの胸に湧くのを覚えたのであつた。
子供達皆無事のよし、何事も皆お前様の深き心入《こゝろいれ》よりと嬉しく候。
と書き出して、優しい言葉が多く書いてある。鏡子が巴里《パリイ》に居た頃、自身達の本国に居た頃より遥かに多く月々の費《かゝ》りが入《い》るのを知らせて来る妹の家計を、下手であると怒つては出すのも出すのも妹を叱る一方の手紙だつたのを、傍からもう少し優しくとか、もう少しどうかならないかと頼み抜いた自分が、傍に居ない日になると、他人の自分が居なくなると兄は妹にこんな手紙も書けるのであるとかう思ふと、鏡子は何とも知れぬ不快な心持になつた。鏡子も無事に日本へ帰るかどうかと心配がされると云ふやうな事もあるのであるが、良人《をつと》の愛に馴れた妻はこの位の事は嬉しいとも思はないのである。
『畑尾さんの処《ところ》へ来たと云ふ方が近いたよりなんですね。』
鏡子は何気《なにげ》ない振《ふり》でかう云つて居た。
『私もう寝ませうかねえ。』
とまた云つた鏡子の声は情なさうであつた。
『さうなさいまし。』
『おやすみなさい。』
鏡子は寝室へ行つた。八畳の真中《まんなか》に都鳥《みやこどり》の模様のメリンスの鏡子の蒲団が敷かれてある、その右の横に三人の男の子の床《とこ》が並んで居て、左には瑞木と花木が寝て居る。若草の中の微風《そよかぜ》のやうな子等の寝息、鏡子のこがれ抜いたその春風に寝る事も鏡子にはやつぱり寂しく思はれた。良人《をつと》を置いて一人この人等の傍へ寝に帰らうとは、立つ前の夜《よ》の悲しい思ひの中でも決して決して鏡子は思はなかつたのであつた。ふとお照がもう五つ六つ年若《としわか》な女であつたなら、そしてあのやうな恐い顔でなかつたならせめて嬉しいであらうなどとこんな事も思ふのであつた。
五時頃から滿と健はもう目を覚《さま》して、互いの床《とこ》の中から出す手や足を引張り合つたり、爆《は》ぜるやうな呼び声を立てたりして居た。鏡子は昨夜《ゆふべ》二三十分|位《ぐらゐ》は眠れたが、それも思ひなしかも分らない程で朝になつたのである。六ケ月の寝台《ベツト》の寝ごこちから、畳の上に帰つた初めての夜《よ》の苦痛もあつたからであらう。
『母《かあ》さん、母《かあ》さん。』
滿が呼んで見た。
『なあに。』
『母《かあ》さん、仏蘭西《ふらんす》の話をして頂戴よ。』
『して、して。』
と健も云ふ。
『母《かあ》さん、話してい。』
花木も云ふ。
『母《かあ》さん。』
云はねば済まないやうに瑞木も云つた。
『狐《けえね》の母《かあ》さん、お乳《ちゝ》を飲ましてくえないか。』
目を覚して晨も声を出した。
『何を云つてるの。』
『学校子供云ふの。』
これは健の友達の弟がさう云つたと云ふ話を晨の聞き覚えた事なのである。
『母《かあ》さん、話してよう。』
滿が云ふのに続いて皆が母《かあ》さん、母《かあ》さんと云ふ。
『母《かあ》さんは昨夜《ゆふべ》よく眠《ね》ないのでね、頭が痛いのよ。』
『さう。ぢやあいいや。』
と滿は云つた。
『つまらないなあ。』
と健は云ふ。好きでない気質の交つた子だと、鏡子は昔からの感情の改《あらたま》り難《がた》い事も健に思つたのであつた。隣の間で榮子の泣声《なきごゑ》がする。
『お湯が沸きましたよ。滿。』
お照が甥を起《おこ》しに来た。
『あら、叔母さんがもう起きていらしやる。』
鏡子が枕から頭《つむり》を上げようとするのを、お照は押《おさ》へるやうな手附をして、
『まあ、お休みなさいよ。』
と云つた。滿と健はばたばたと床《とこ》を抜けて行つた。
『どうせ寝られないのだから。』
都鳥《みやこどり》の居る紺青《こんじやう》の浪が大きく動いて鏡子は床《とこ》の上に起き上つた。
『昨晩はよくお休みなさいましたか。』
『ちつとも。』
寝くたれ髪が長く垂れて少女《をとめ》のやうな後姿《うしろすがた》であつた。
『兄《にい》さんが余計お湯を使つちやつた。』
健の泣き出したのを聞いてお照は洗面|場《ば》の方へ行つた。榮子はまた声を張り上げて泣いた。
鏡子は鏡の室《ま》から出て来て、
『お照さん、こんな結ひ様《やう》もあるのよ。』
と云つて、頭《あたま》を其《その》方へ傾けて見せた。髪の根を下の方で束《たば》ねて、そしてその根も末の方も皆裏へ折り返して畳んでしまつてあるのである。
『さつぱりとして軽さうですね。』
『けれど尼様《あまさま》のやうに見える寂しい頭だつて良人《うち》は嫌ひなのよ。』
『さう云へばさうですね。昨日《きのふ》のになさいまし。』
『でもいいわ。今は尼様だわ。』
頬《ほ》を少し赤めて彼方《あちら》へ行つた姉をお照は面白くなく思つて見送つた。
男の子二人が、
『行つて参ります。』
と云つて庭口《にはぐち》から出た後《あと》で外の家族は朝飯《あさげ》の膳に着いた。
『英さんのおみおつけが別にしてあつた。』
『さうですね。』
お照が立つと、わあつと榮子が泣き出した。直《す》ぐ叔母は戻つて来て榮子を膝の上に上げて、
『どうしました。どうしました。お乳《ちゝ》を上げようね。』
と云つて襟をくつろげた。榮子は小《ちいさ》い手を腹立たしげに入れて叔母の乳《ちゝ》を引き出して口に入れた。
『まあ乳《ちゝ》を飲むのですか。』
と鏡子は云つたが、心は老いたる処女の心持の方が不可思議でならないのであつた。
『ええ。』
お照はまた其《その》子に、
『母《かあ》さんのお乳《ちゝ》は真実《ほんとう》のお乳《ちゝ》よ、お貰ひなさいよ。』
と云つた。
『いやだわ。』
と鏡子は反撥的に云つた。そして、
『何故《なぜ》さうなのでせう。玉川の方でも乳《ちゝ》は一年|限《ぎ》りで廃《よ》して居たのだつたのにね。』
かう云ひながら末の出す赤い盆にてつせんの花の描《か》いた茶碗を載せた。
『さあ御飯を食べませう。』
お照は乳房《ちぶさ》をもぎ放して榮子を下に置いた。また泣いて居たのを、
『ばつたりおだまり。』
と叔母に云はれるのと一緒に声を飲んだ子がをかしくて鏡子は笑ひ出したく思つた。後《おく》れて来た花木が、
『あら、叔母さん嘘、お芋のおみおつけだと云つたのに。』
と云つて汁椀の中を箸で掻き廻して居る。
『八つ頭と云つてこれもお芋ですよ。』
と母親が云つた。
『叔母さんは嘘つきですとも。』
と云つたお照は目に涙を溜めて居た。鏡子は京都者の軽い意味で云ふ横着と云ふ言葉が、東京者に悪い感じを与へるのと、東京の人が軽い意でちよくちよく嘘と云ふ言葉を遣ふのが京の人に不快を覚えさすのとは、一寸《ちよつと》説明した位《ぐらゐ》で分らない事だから、こんな時には黙つて居るより仕方がないと思つて居る。そしてこれからの困りやうが思ひ遣られるのであつたが、留守のうち、過去と云ふ事は思つて見たくなかつた。それでなくとも自分は彼方《あちら》に居た六ケ月の間、心の中で毎日子に跪《ひざまづ》いて罪を詫びない日はなかつたのであるからと思つて居た。榮子は御飯が熱いから厭《いや》、冷《つめた》いからいけないと三度程も替へさせてやつと食べにかゝつて居るのである。それは母を見ぬやうに目を閉《ふた》いで口を動《うごか》して居るのである。
『私を見るのが厭《いや》で目を閉《ふた》いで居るのね。』
『ふ、ふ。』
とお照は笑つて、
『榮ちやん、好《い》い顔をなさいよ。あなたは真実《ほんとう》に可愛い表情をする人ぢやありませんか。』
と云つて居た。
書斎へ来て新聞を見ようとして、自身の事の出て居るのに気が附いた鏡子は、三四種の新聞を後《うしろ》の靜《しづか》の机の上へそのまゝ載せた。[#底本には「』」があるが除いた]
『お早う。』
瑞木が挨拶に来た。花木も晨も来た。
『何故《なぜ》御挨拶に行《ゆ》けないのです。よくおしやべりをする口で。』
お照の声が不意に書斎の隣で起つて、続いてぴしやり、ぴしやりと子の頭《かしら》を打つ音が鏡子に聞《きこ》[#ルビの「きこ」は底本では「こ」]えた。
『いやだあ、しない、しない。』
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