を一度|母《かあ》さんが抱きませうね。』
さう云ふと、おつとりとした子は限りもない喜びを顔に見せて母の膝に腰を掛けた。瑞木も傍へ来て母にもたれかかるのであつた。
晨は襖子《ふすま》にもたれて立つて居る。滿は縁側へ箱を持ち出して夏子に開《あ》けて貰つて居る。
『母《かあ》さん、恐い夢を見たの、巴里《パリイ》で。』
花木は下を向いて我足を見詰めながら云つた。これは何時《いつ》やら鏡子が子の上で見た凶夢を悲しがつて書いて遣《よこ》したのを、叔母から語られて子供達は知つたのである。
『厭《いや》な夢を見てね。』
『花ちやんがいくらでもいくらでも泣くのですつてね、母《かあ》さん。』
瑞木がをかしさうに云つた。
『厭《いや》な夢ね、真実《ほんとう》に真実《ほんとう》に厭《いや》な夢。』
と花木が云ふ。鏡子は其《その》夢の中でかうして抱いたら泣き止んだことを思ひ出して、じつとまた抱きしめた。清の子の千枝子が庭口から入《はい》つて来た。
『あら、千枝子さん。』
と鏡子は我を忘れて云つた。従妹《いとこ》の影を見て双子《ふたご》は一緒に出て行つた。晨も行つてしまつた。お照が榮子を抱いて来た。泣いた跡《あと》らしく榮子の頬がぴりぴりと動いて居る。家《うち》の中で一番美人と云ふ評判をする人があるとか、自分も確かにさう思ふのと榮子の事をお照が巴里《パリイ》へ書いて遣《よこ》すのを、巴里《パリイ》で夫婦はそんな事がと云つて苦笑したのであつたが、或《あるひ》はさう云ふ風に顔が変つて来たのかも知れないと思はないでも鏡子はなかつたのであつたが、先刻《さつき》一目見た時からその一番の美人と云ふ事をどんなに滑稽に鏡子は思つて居るか知れないのである。子供として並外れた高い鼻と其《その》横に附いて居る立湧《たてわく》のやうな深い線、未来派《キユビスト》の描《か》きさうな目を榮子は持つて居るのである。髪の毛も叔母によく似た癖毛である。
『母《かあ》さんの所へ行つていらつしやい。』
と云つて、お照が榮子を畳の上へ置くと、口唇も頬も一層の慄《ふる》へを見せて横歩きに母の傍へ末の子は近寄つた。
『抱つこして上げませう。』
鏡子は手を出したが目は今|入《はい》つて来た千枝子にそそがれて居た。千枝子は黒地に牡丹の模様のあるメリンスの袖の長い被布《ひふ》を着て居る。
『おかへり。』
手を突いて静かに千枝子は頭《つむり》を下げた。
『大きくなりましたね、髪が長くなりましたねえ。』
嬉しさうに鏡子は云つた。元禄袖の双子《ふたご》は一つ齢《とし》下の従妹《いとこ》を左右から囲んで坐つた。暫く直つて居た榮子の頬の慄《ふる》へが母の膝に抱かれるのと一緒にまた烈《はげ》しくなつてきた。鏡子は榮子が預けてあつた里の家から帰つて来て半月《はんげつ》程で旅立つたのであるから、この子に就いての近い過去としては、里から附いて来た娘のことを、とうとの姉《ねえ》やと呼んで、いくら抱かうとしても、
『とうとの姉《ねえ》やだあい。』
と叫泣《さけびなき》をされた記憶しかない。遠い昔にはその丸十一ケ月前に生れて牛乳で育てられて居た晨がひよわな子で、どうしても今度生れたのは乳母を雇ふか里へ預けるかして育てねばならない事になつて、[#「、」は底本では脱落]乳母と云ふ鏡子の望む方の事は月に小《こ》二十円の費《かゝ》りが入ると云ふので靜の恩家《おんか》への遠慮で実行する事が出来ずに、里へ預ける事になつた時、未《ま》だ産後十七日|位《ぐらゐ》の身体《からだ》で神田の小川町へ、榮子に持たせてやる涎掛《よだれかけ》だの帽子だのの買物に行つた其《その》日の悲しい寂しい思ひ出がある。里親夫婦が自身達よりも美服した裕福な品のある人達であるのを嬉しく思ひながら、榮子が明日《あす》から居る処をみじめな田舎|家《や》とばかり想像されて、ねんねこの掛襟《かけえり》を掛けながら泣いて居たのも鏡子だつたのである。
『榮子に乳《ちゝ》を飲ませて上げようか。』
鏡子は白い胸を開《あ》けた。六年程子の口の触れない乳《ちゝ》は処女の乳《ちゝ》のやうに少《ちいさ》く盛り上つたに過ぎないのである。
『厭《いや》、厭《いや》。』
榮子は首を振つた。
『ぢやあまた欲《ほ》しい時に上げませうね。』
と云つて鏡子は襟を合《あは》せた。何時《いつ》の間にか千枝子も伯母の膝にもたれて居た。お照が千枝子に二言《ふたこと》三言《みこと》物を云つて[#「云つて」は底本では「立つて」]行《ゆ》かうとすると榮子がわつと泣き出した。鏡子は手を放して子を立たせた。お照は走つて寄つた榮子を、
『いけません。』
と突き飛ばして行つてしまつた。榮子は直《す》ぐ起き上つて走つて行つた。
『千枝子さんはお悧口《りこう》ね。』
かう云つて鏡子は姪に頬|擦《ず》りをしたが心は寂しかつた。千枝子は口を少し開《あ》いて小鳥のやうな愛らしい表情をして居た。鏡子は弟の様に思つて居る京都の信田《しのだ》と云ふ高等学校の先生が、自分は一人子《ひとりご》の女《むすめ》よりも他人の子の方を遥《はるか》に遥に可愛く思ふ事、思ふ事の常である事を経験して居ると云つた事を思ひ出したりなどして居た。
『姉《ねえ》さん、お湯が沸きましたからお顔を洗つて頂きませう。』
とお照が云つて来た。鏡子が髪もさつぱりと結ひ替へて書斎へ帰るとまた二三人の記者が待つて居た。顔も知らない人もあつたが鏡子は心と反対な調子づいた話をして居た。
鏡子が茶の間で昼の膳に着いたのはかれこれ二時前であつた。向ふの六畳では清と英也と秋子と千枝子が並んで食べて居た。英也は何時《いつ》の間にか銘仙に鶉縮緬《うづらちりめん》の袖の襦伴[#「伴」はママ]を重ねて大島の羽織を着て居た。それは皆靜のものであつた。着る人も扱ふ人も自分達でなくなつたと、深くはないが鏡子の胸に哀れは感じさせた。末と云ふ女中はお照の事を奥様と云つて居る。畑尾は先刻《さつき》頼まれて帰つた事の挨拶に二三|軒《げん》の家《うち》へ出掛けて行つたのである。
荷物が皆配達されて鏡子はおもちや類を子供に分けた。双子《ふたご》と千枝子は揃ひの人形、滿と健と薫はバロンの毬《たま》、晨は熊のおもちや、榮子は姉達のより少し小《ちいさ》いだけの同じ人形を貰つた。
『まだあるの、けれど鞄の中で他の物に包んだりしてあるのだから後《あと》で出して上げます。千枝ちやんや、瑞木さんや、花木さんの洋服もあるのよ。』
と鏡子は云つた。
『僕には何があるの、外に。』
と健が云つた。
『さあ何だつたかねえ。』
『母《かあ》さん、兄《にい》さんはもう要《い》らないのね、絵具箱があるのだもの。』
『そんな事ありませんね、母《かあ》さん。』
『いいんだ。いいんだ。』
『やかましい、健。』
と滿が云ふと、
『いやあ。』
と健が泣き出した。
『瑞木ちやんの人形の方がいいのよ、とり替へて頂戴よ。』
と花木が云ふ。
『いやよ、いやよ。』
と瑞木が泣声で云つて居る。鏡子は周章《あわたゞ》しい世界へ帰つて来たと夢から醒めた時のやうな息をして子供達を見て居た。
『後程《のちほど》また伺ひます。』
清は薫のバロンを持つて、千枝子だけを残して帰つた。鏡子はふとトランクや鞄の鍵をどうしたかと云ふ疑ひを抱《だ》いて書斎へ行つた。そして赤地錦《あかぢにしき》の紙入《かみいれ》を違棚《ちがひだな》から出した中を調べて見たが見えない。
『あら。』
と独言《ひとりごと》を云つて首を傾けて見たが外に何の心覚えもない。
『お照さん、鞄の鍵を私落して来てよ。』
恥《はづか》しい事を思ひ切つて云ふやうに鏡子は隣の間の妹に声を掛けた。
『何処《どこ》かにあるのぢやありませんか。』
入《はい》つて来たお照の顔は目の尻、結んだ口の左右に上向いた線がある。
『着物を脱いだ[#「脱いだ」は底本では「晩いだ」]所になかつたこと。』
『いいえ、ありません。』
『ぢやあ汽車の中なんだわ。』
『大変ですね。』
『さうだわ。』
『困りますね。』
『いいわ。どうかなるわ。けれどあなた一寸《ちよつと》新橋の停車場《すていしよん》へ電話で聞いて見て下すつても好いわ。あのう、食堂車の前の箱ですつて。』
『さういたしませう。』
お照は立ちしなに襟先を一寸《ちよつと》引いて、上褄《うはづま》を直して出て行つた。
鏡子が茫《ばう》として居る処《ところ》へ南が出て来た。
『おや、南さん。』
鏡子の頬に涙がほろほろと零《こぼ》れた。
『おめでたう。』
其《その》儘じつと南は俯《うつ》向いて居て、細い指だけは火鉢の上へかざされた。この無言の中へ夏子の入《はい》つて来たのを鏡子は嬉しくなく思つた。英也も来て南に初対面の挨拶をして居た。
出入《でいり》の料理屋の菊屋から奥様にと云つて寿司の重詰《ぢうづめ》が来たと云つてお照が見せに来た。片手は背に廻して先刻《さつき》から泣いて居る榮子を負《お》ぶつて居るのである。
『何故《なぜ》そんなに榮子は泣くのでせう。』
『先刻《さつき》ね、今晩から母《かあ》さんとおねんねなさいと云つたら、それから泣き初めたのですよ。』
お照は口を曲げてかう云つた。
『そんなことを云はないでもいいに。』
と云つて鏡子は榮子の顔を見て一寸《ちよつと》眉を寄せた。
『榮ちやん、いけませんねえ。』
と云つて榮子を夏子が抱き取つて二人の女は一緒に立つて行つた。
『焼けましたねえ。』
南は気の毒さうにまじまじと師の奥様の顔を眺めて居る。
『情ないのねえ。けれど荒木さんは私を若くなつたと神戸では云つたのね。』
鏡子は英也の顔を見て笑ひながら云つた。
『少《すくな》くも二つ三つはね。』
英也は胡散《うさん》らしく云つた。
『さうぢやありませんよ、確《たしか》に。』
『南さんの方が真実《ほんとう》ですね。ねえ南さん、良人《うち》がね、巴里《パリイ》でね、此処《こゝ》へ着いた十日程は若かつたねと云ふのでせう。私を先に帰して下すつたら、あなたが帰つていらつしやる時にはまた五日|位《ぐらゐ》は若いでせうと云つたの、僕の思ひなしにしてしまつて居るのだ馬鹿だと怒つてましたわ。』
英也は火鉢の灰を掻きならしながら下を向いて笑つて居た。
南夫婦と鏡子は菊屋の寿司を書斎へ運ばれて、子供達は六畳でそれを食べて、夕飯《ゆふげ》はそれで済んだ。飯酒家《のみて》の英也はお照の見繕《みつくろ》つた二三品の肴《さかな》で茶の間で徳利を当てがはれて居た。清の妻の都賀子《つがこ》が来たので鏡子は暫く座敷で語つて居た。都賀子は鏡子よりは二つ三つの年上で洒脱《しやだつ》な江戸女である。
『唯今迄のお照さんのお役目が大変で御座いました。』
と出て来た妹に花を持たせる事も忘れなかつた。
鏡子は書斎へ帰つてゆきなり、
『私ときどき喧嘩もして来てよ、帰りたいばかしに。』
と云つて南夫婦をじつと見た。
『ほ、ほ、ほ。』
と夏子は笑つた。やつとして南は、
『さうですか。』
と云つて居た。南の気の毒なものを見るやうな目附《めつき》が鏡子には寂しく思はれるのであつた。巴里《パリイ》への手紙は今日《けふ》書けないかも知れぬと悲しい気持になつたり、書棚の引出しに確かにある筈《はず》の良人《をつと》と一緒に去年の夏頃とつた写真が見たいものだと云ふ気になつたりして居た。榮子がまたぐずぐず云つて居るのを聞いて夏子が立つて行つた。
榮子は英也の向側に坐つたお照の横に、綿入《わたいれ》を何枚も重ねて脹《ふく》れた袖を奴凧《やつこだこ》のやうに広げて立つて、
『叔母さんとねんの、叔母さんとねんの。』
と連呼して居た。
『どうなすつたの、榮ちやん。夏子さんとおねんねいたしませう。』
と云つて夏子は坐つた。お照は榮子を膝に掛けさせて、
『母《かあ》さんと寝れば好《い》いので御座いますがね。』
と云つた。
『今晩からは御《ご》無理で御座いますよ。榮ちやんいらつしやい。』
榮子は夏子の伸《のば》した手の中へ来た。
『さあお寝召《ねめし》を着かへませう。お末さん何
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