帰つてから
與謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)此方《こちら》へ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荒木|英也《ひでや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「月+齶のつくり」、第3水準1−90−51]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すが/\
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浜松とか静岡とか、此方《こちら》へ来ては山北とか、国府津とか、停車する度に呼ばれるのを聞いても、疲労し切つた身体《からだ》を持つた鏡子《かねこ》の鈍い神経には格別の感じも与へなかつたのであつたが、平沼《ひらぬま》と聞いた時にはほのかに心のときめくのを覚えた。それは丁度ポウトサイド、コロンボと過ぎて新嘉坡《しんがぽうる》に船の着く前に、恋しい子供達の音信《たより》が来て居るかも知れぬと云ふ望《のぞみ》に心を引かれたのと一緒で自身のために此処《こゝ》迄来て居る身内のあるのを予期して居たからである。鏡子《かねこ》の伴《つれ》は文榮堂書肆の主人の畑尾《はたを》と、鏡子の良人《をつと》の靜《しづか》の甥で、鏡子よりは五つ六つ年下の荒木|英也《ひでや》と云ふ文学士とである。畑尾は何かを聞いた英也に、
『ああさうです、さうです。此処《こゝ》に来てゐる筈《はず》です。』
と[#「と」は底本では「ど」]点頭《うなづ》きながら云つて、つと立つて戸口を開《あ》けて外へ出た、英也も続いて出て行つたらしい、白つぽい長《なが》外套の裾が今目を過《よぎ》つたのは其《その》人だらうと鏡子は身を横《よこた》へた儘で思つて居た。目の半《なかば》は氷を包んで額へ置いたタオルで塞がれて居るのである。
『あつ、坊《ぼつ》ちやんが来やはつた。』
遠い所でかう云つた畑尾の声《こひ》[#ルビの「こひ」はママ」が鏡子の耳に響いた。迸《ほどばし》るやうな勢《いきほひ》で涙の出て来たのはこれと同時であつた。暫くしてから氷に手を添へた心程《こゝろほど》身を起して気恥《きはづか》しさうに鏡子が辺《あたり》を見廻した時、まだ新しい出迎人《でむかへにん》も旧《もと》の伴《つれ》の二人も影は見えなかつた。国府津で一緒になつた新聞記者が二人|向側《むかふがは》に腰を掛けて居るので、この人|等《ら
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