たい》ぶらせたり、誇張させたりしているかは説明を要しない事実です。倫理教育において「真実を尊べ」とか「正直に物をいえ」とか教えて置きながら、文章語の読本及び作文においては、反対に、意識して真実から遠ざかった文章を読みかつ綴《つづ》らせているのです。手段を学ぶために多大の心力と時間とを消費するのも文章語であり、その手段のためにかえって目的の意志表示を不便不自由にするのも文章語であると思います。私のこの意見に反対される人たちは、小学なり、中学なり、女学校なりのいずれかの読本を一読されるなら、立ちどころに承認されるであろうと思います。何事にせよ、旧式に属する手段に多くの崇拝と未練とを持つ国民は、文化的に世界と進歩を競い得る積極主義の国民でないといわねばなりません。
 或人たちは反対していわれるでしょう。文章語は単純なる意志表示の手段ではなく、それには日本国民の貴重なる伝統的精神が含まれている。文章語の廃絶はやがて国民性の廃絶であると。恐らくこれは保守主義者の拠って以て自ら守る有力な反対理由であろうと思います。しかし私は、手段たる言語に依って国民の精神が左右されるものとは考えません。その貴重な伝統的精神は現代人の言語であるところの口語に新訳することが出来ます。現に私たちは和漢の古文を読んだり、その講義を聴いたりする時、もとの古文のままでは受用していず、それを一々現代の言語に意訳して理解しています。日本人の古代精神がすべて『古事記』や『万葉集』の言語に依るのでなければ理解が出来ないというものでない限り、今日にもなお必要だと思う古代精神は、それを自由に現代の口語に新訳して教育すれば好いのです。古文を教えないという事は決して古代精神を教えないという事にはなりません。また古文の教育は大学その他の高等教育機関において特別に施しさえすれば決して反対論者の杞憂《きゆう》のように廃絶するものでないと思います。
 第三に私の注意したい所は、現在の国語読本や修身読本に書かれている口語体が余りに悪文に満ちていることです。どの文章を取って見ても、これが現代語で書かれた立派な文章であると思われるものを発見しません。教科書の文章は必ずしも名文たることを要しないと思いますが、とにかく立派な現代文の標本であって欲しいと思います。果して現代の日本はこんなにみすぼらしい文章を以て標本とせねばならぬほどに文学の
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