い熱情を持っている者であると共に、国語に対する理解についても相応の自信を持っている一人です。私の慎重に考察する所では、国語は国民の意志を表示し合う手段です。既に手段である以上、国民の言語としては、端的に国民の意志を表示することが出来て、それが自由にかつ一般的に使用されるものでなくてはなりません。手段のために主要な意志の表示が不自由になり、迂遠《うえん》になり、あるいは晦渋《かいじゅう》になるようでは、決して最上の手段といわれないのです。また出来るだけその手段は誰にも容易に使用されるものであることを必要とし、手段を学ぶために特に多くの心力と時間とを消費せねばならぬというようでは面白くありません。
国語に対する私のこの見解が承認して頂けるならば、普通教育における国語は専ら口語体のみを課すべきであると思います。口語体は現在の国民の思想感情を最も明確に表示して、命も、血も、熱もこれに打込んだ第一次的の言語であるのですから、すべての子女は早くから家庭でこれに習熟しています。学校においては、それを書きあらわす文字と、少しの口語の規則とを教えさえすれば、子女をそれを鳥の自ら囀《さえず》るように、楽々として読みかつ書くことが出来るのです。その上すべての読本を口語体で統一すれば、特に国語読本を授ける必要もなくなり、作文も頭に浮んだ第一の思想をそのまま写せば好く、これがために子女及び教師の心力と、授業の時間とをどれだけ多く他の有用な学科に善用し得るか知れません。
文章体の言語は古代人の言語です。それは決して現代人の精神や感覚を端的に表示し得るものでなく、それを現代に役立てようとすれば、我々は先ずその型を学ばねばなりません。
また文章体の言語は、今日もなお不完全な日本文典で辛抱しているほどに、科学的に出来上った言語ではなく、直覚を以て感得せねばならぬ所の多い特殊な詩的言語であるのですから、これを現代の国民の実用語とする教育方針がもともと間違っているのです。世間には漢字の廃止を唱える人がありますけれど、漢字は放任して置いても必要なもの以外は次第に行われない傾向を持っていますが、文章語の文法はこれを教育において英断に除外しない限り、永久に国民の意思表示を困難にして、莫大《ばくだい》な禍害を国民生活に与えるものだと思います。文章語がどれだけ私たちの意志を曲げたり、稀薄にしたり、勿体《もっ
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