ても、
「この穢《きたな》いのが目に着かんか。」
とお睨《にら》み廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄《みぶる》ひをすると云ふのです。または自身達の散《ちら》して置いた塵《ちり》でなくても、
「この埃《ほこり》が目に見えないのか。」
と子供等は云はれたであらう、梯子|上《のぼ》りにだんだん怒《いか》りが大きくなつて来るあなたは、終《しま》ひには縮緬《ちりめん》の着物を着た人形でも、銀の喇叭《らつぱ》でも、筆の莢《さや》を折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時《いつ》来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。唯《た》だ私の詩集が八冊程|花瓶《はながめ》の前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方《あちこち》には白い紙が栞《しおり》のやうにして挟《はさ》んであると云ふのです。本の上には京の茅野《ちの》さんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野《ちの》さんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれは廃《や》めると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。併《しか》しさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物《さくぶつ》には生んだ親である自分にも勝《まさ》つた愛を掛けて呉れる人達が少《すくな》くも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥《はづか》しい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱《やなぎばこ》の上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処《どこ》かの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。
四
今日《けふ》はもう書斎へは入《はひ》つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処《そこ》で過《すご》して、悲しいことも嬉しいことも其処《そこ》に居る時の私が最も多く感じた処《ところ》なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなので
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