関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、盗賊《どろばう》のではないかと思つて戸の方《はう》を見ても、硝子《ガラス》戸もその向うの戸もきちんと閉《しま》つて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋から烈《はげ》しい男の寝息の聞《きこ》えて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私は暫《しばら》く怖《おび》えさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が夜泊《よどま》りでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのを直《す》ぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は何処《どこ》かヽら出て来ることもあるでせう。
私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎を煩《わづら》つた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのお艶《つや》さんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さる方《かた》に違ひないと信じ切つて居ました。何時《いつ》死んでも好《い》いと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ継母《まヽはヽ》に任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るお艶《つや》さんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。
七
世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさにこの事を帰して思ふのではありません。私一人が悪いのだと思つて居ます。ああした身体《からだ》になつた人には女のやうなヒステリイはないのであらうと云ふ誤解をしたり、既に男性的な辛辣な性質も加つて居ると云ふ観察をようしなかつたりして、一生に比べて見れば六箇月は僅かなやうなものヽ、その間を私の子の肉体から霊魂までも疑ひを挿《はさ》まずにお艶《つや》さんに預けて行《ゆ》きました。私は自分の子に済まないことをしたと思つて泣いても泣き足りなく思ひます。私は欧州に居た間の叔母さんと子供等とに就いて然《しか》もそれ程くはしいことは知らないのです。四人程そのことに就いて話してやらうと云つて来た人がありましたが、私は自分の後暗《うしろくら》さから(間接に子供を苛《いぢ》めたのは私とあなたなのですから)そ
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