の室に通じているのであろう。随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。
 オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去った日のあらゆる感情が復活して来たのだろうか。今の疑懼《ぎく》の心持は昔マドレエヌの家の小さい客間で、女主人の出て来るのを待ち受けた時と同じではないか。人間の記憶は全く意志の掣肘《せいちゅう》を受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。そう云う閲歴は官能的閲歴である。オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青年の胸のように躍った。ただ昔と今と違っているのは、今はそのあらゆる感動が一々意識に上って、他日筆にする材料として保存せられるだけである。
 突然オオビュルナンは物に驚いて身を振り向けた。そっと硝子戸を開けたような音がした
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