MENSURA ZOILI
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吾妻橋《あずまばし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正五年十一月二十三日)
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僕は、船のサルーンのまん中に、テーブルをへだてて、妙な男と向いあっている。――
待ってくれ給え。その船のサルーンと云うのも、実はあまり確かでない。部屋の具合とか窓の外の海とか云うもので、やっとそう云う推定を下《くだ》しては見たものの、事によると、もっと平凡な場所かも知れないと云う懸念《けねん》がある。いや、やっぱり船のサルーンかな。それでなくては、こう揺れる筈がない。僕は木下杢太郎《きのしたもくたろう》君ではないから、何サンチメートルくらいな割合で、揺れるのかわからないが、揺れる事は、確かに揺れる。嘘だと思ったら、窓の外の水平線が、上ったり下ったりするのを、見るがいい。空が曇っているから、海は煮《にえ》切らない緑青色《ろくしょういろ》を、どこまでも拡げているが、それと灰色の雲との一つになる所が、窓枠の円形を、さっきから色々な弦《げん》に、切って見せている。その中に、空と同じ色をしたものが、ふわふわ飛んでいるのは、大方《おおかた》鴎《かもめ》か何かであろう。
さて、僕の向いあっている妙な男だが、こいつは、鼻の先へ度の強そうな近眼鏡をかけて、退屈らしく新聞を読んでいる。口髭《くちひげ》の濃い、顋《あご》の四角な、どこかで見た事のあるような男だが、どうしても思い出せない。頭の毛を、長くもじゃもじゃ生やしている所では、どうも作家とか画家とか云う階級の一人ではないかと思われる。が、それにしては着ている茶の背広が、何となく釣合わない。
僕は、暫く、この男の方をぬすみ見ながら、小さな杯《さかずき》へついだ、甘い西洋酒を、少しずつなめていた。これは、こっちも退屈している際だから、話しかけたいのは山々だが、相手の男の人相が、甚《はなは》だ、無愛想に見えたので、暫く躊躇《ちゅうちょ》していたのである。
すると、角顋《かくあご》の先生は、足をうんと踏みのばしながら、生あくびを噛《か》みつぶすような声で、「ああ、退屈だ。」と云った。それから、近眼鏡の下から、僕の顔をちょいと見て、また、新聞を読み出した。僕はその時、いよいよ、こいつにはどこかで、会った事があるのにちがいないと思った。
サルーンには、二人のほかに誰もいない。
暫くして、この妙な男は、また、「ああ、退屈だ。」と云った。そうして、今度は、新聞をテーブルの上へ抛り出して、ぼんやり僕の酒を飲むのを眺めている。そこで僕は云った。
「どうです。一杯おつきあいになりませんか。」
「いや、難有《ありがと》う。」彼は、飲むとも飲まないとも云わずに、ちょいと頭をさげて、「どうも、実際退屈しますな。これじゃ向うへ着くまでに、退屈死《たいくつじに》に死んじまうかも知れません。」
僕は同意した。
「まだ、ZOILIA の土を踏むには、一週間以上かかりましょう。私は、もう、船が飽き飽きしました。」
「ゾイリア――ですか。」
「さよう、ゾイリア共和国です。」
「ゾイリアと云う国がありますか。」
「これは、驚いた。ゾイリアを御存知ないとは、意外ですな。一体どこへお出《い》でになる御心算《おつもり》か知りませんが、この船がゾイリアの港へ寄港するのは、余程前からの慣例ですぜ。」
僕は当惑《とうわく》した。考えて見ると、何のためにこの船に乗っているのか、それさえもわからない。まして、ゾイリアなどと云う名前は、未嘗《いまだかつて》、一度も聞いた事のない名前である。
「そうですか。」
「そうですとも。ゾイリアと云えば、昔から、有名な国です。御承知でしょうが、ホメロスに猛烈な悪口《わるくち》をあびせかけたのも、やっぱりこの国の学者です。今でも確かゾイリアの首府には、この人の立派な頌徳表《しょうとくひょう》が立っている筈ですよ。」
僕は、角顋《かくあご》の見かけによらない博学に、驚いた。
「すると、余程古い国と見えますな。」
「ええ、古いです。何でも神話によると、始は蛙《かえる》ばかり住んでいた国だそうですが、パラス・アテネがそれを皆、人間にしてやったのだそうです。だから、ゾイリア人の声は、蛙に似ていると云う人もいますが、これはあまり当《あて》になりません。記録に現れたのでは、ホメロスを退治した豪傑が、一番早いようです。」
「では今でも相当な文明国ですか。」
「勿論です。殊に首府にあるゾイリア大学は、一国の学者の粋《すい》を抜いている点で、世界のどの大学にも負けないでしょう。現に、最近、教授連が考案した、価値測定器の如きは、近代の驚異だと云う評判です。もっとも、これは、ゾイ
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