で、会った事があるのにちがいないと思った。
 サルーンには、二人のほかに誰もいない。
 暫くして、この妙な男は、また、「ああ、退屈だ。」と云った。そうして、今度は、新聞をテーブルの上へ抛り出して、ぼんやり僕の酒を飲むのを眺めている。そこで僕は云った。
「どうです。一杯おつきあいになりませんか。」
「いや、難有《ありがと》う。」彼は、飲むとも飲まないとも云わずに、ちょいと頭をさげて、「どうも、実際退屈しますな。これじゃ向うへ着くまでに、退屈死《たいくつじに》に死んじまうかも知れません。」
 僕は同意した。
「まだ、ZOILIA の土を踏むには、一週間以上かかりましょう。私は、もう、船が飽き飽きしました。」
「ゾイリア――ですか。」
「さよう、ゾイリア共和国です。」
「ゾイリアと云う国がありますか。」
「これは、驚いた。ゾイリアを御存知ないとは、意外ですな。一体どこへお出《い》でになる御心算《おつもり》か知りませんが、この船がゾイリアの港へ寄港するのは、余程前からの慣例ですぜ。」
 僕は当惑《とうわく》した。考えて見ると、何のためにこの船に乗っているのか、それさえもわからない。まして、ゾイリアなどと云う名前は、未嘗《いまだかつて》、一度も聞いた事のない名前である。
「そうですか。」
「そうですとも。ゾイリアと云えば、昔から、有名な国です。御承知でしょうが、ホメロスに猛烈な悪口《わるくち》をあびせかけたのも、やっぱりこの国の学者です。今でも確かゾイリアの首府には、この人の立派な頌徳表《しょうとくひょう》が立っている筈ですよ。」
 僕は、角顋《かくあご》の見かけによらない博学に、驚いた。
「すると、余程古い国と見えますな。」
「ええ、古いです。何でも神話によると、始は蛙《かえる》ばかり住んでいた国だそうですが、パラス・アテネがそれを皆、人間にしてやったのだそうです。だから、ゾイリア人の声は、蛙に似ていると云う人もいますが、これはあまり当《あて》になりません。記録に現れたのでは、ホメロスを退治した豪傑が、一番早いようです。」
「では今でも相当な文明国ですか。」
「勿論です。殊に首府にあるゾイリア大学は、一国の学者の粋《すい》を抜いている点で、世界のどの大学にも負けないでしょう。現に、最近、教授連が考案した、価値測定器の如きは、近代の驚異だと云う評判です。もっとも、これは、ゾイ
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