饒舌
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)始皇帝《しくわうてい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この間|博浪沙《はくらうしや》で
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》
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始皇帝《しくわうてい》がどう思つたか、本を皆焼いてしまつたので、神田《かんだ》の古本屋《ふるぼんや》が職を失つたと新聞に出てゐるから、ひどい事をしたもんだと思つて、その本の焼けあとを見に丸《まる》ノ内《うち》へ行《ゆ》かうとすると、銀座《ぎんざ》尾張町《をはりちやう》の四《よ》つ角《かど》で、交番の前に人が山のやうにたかつてゐる。そこで後《うしろ》から背のびをして覗《のぞ》いて見ると、支那人《シナじん》の婆《ばあ》さんが一人《ひとり》巡査の前でおいおい云ひながら泣いてゐた。尤《もつと》も支那人と云つても、今の支那人ではない。平福百穂《ひらふくひやくすゐ》さんの予譲《よじやう》の画からぬけ出したやうな、古雅《こが》な服装をした婆さんである。巡査はいろいろ説諭をしてゐるが、婆さんの耳には少しもそれがはいらないらしい。何しろあんまり婆さんの泣き方が猛烈だから、どうしたんだらうと思つて見てゐると、側にゐたどこかのメツセンヂア・ボイが二人《ふたり》でこんな事を話してゐる。
「あれは丸善《まるぜん》の金《きん》どんのお母《つか》さんだよ。」
「どうして又金どんのお母さんがあんなに泣いてゐるんだらう。」
「なにね、始皇帝《しくわうてい》が今日《けふ》東京中の学者をみんな日比谷《ひびや》公園の池へ抛《はふ》りこんで、生埋《いきう》めにしちまつたらう。それで金どんもやつぱり生埋めにされちまつたもんだから、それであんなにお母さんが泣いてゐるのさ。」
「だつて金どんは学者でも何《なん》でもないぢやないか。」
「学者ぢやないけれど、金どんはあんまり生物識《なまものしり》を振まはすから、丸善《まるぜん》ぢや学者つて綽名《あだな》がついてゐるんだよ。だから警察でも大学教授や何かの同類だと思つて、生埋めにしてしまつたのさ。」
するとその隣の、小倉《こくら》の袴をはいた書生が、
「怪《け》しからんな。名の為に実《じつ》を顧みないに至つては閥族《ばつぞく》の横暴も極《きはま》れりだ。」と憤慨《ふんがい》した。
自分もそれは乱暴だと思つたから、
「実に怪《け》しからんですな。」と書生の憤慨に賛成の意を表《へう》した。書生は自分の賛成を得て大《おほい》に知己《ちき》を得たやうな気がしたのだらう。彼は自分の方《はう》をふりむくと、滔々《たうたう》としてこんな事を辯じ出した。
「万事《ばんじ》この調子だから驚くです。かう云ふ事には最も理解がある可《べ》き文壇でさへ、イズムで人間を律しようとするんですからな。一度《いちど》新技巧派と云ふ名が出来ると、その名をどこまでも人に押しかぶせて、それで胡麻《ごま》をする時は胡麻をするし、退治《たいぢ》する時は退治しようとするんですからな。我々青年はまづこの弊風《へいふう》を打破しなければいかんです。僕はこの間|博浪沙《はくらうしや》で始皇帝《しくわうてい》の車に鉄椎《てつつゐ》を落させました。不幸にしてそれは失敗しましたが、まだ壮心が衰へた訳ではありません。」
かう云つて書生は、群集を麾《さしまね》きながら、
「諸君、憲政の擁護の為にあの交番を破壊しようではありませんか。」と絶叫した。
それに応じてどこからか石が一つ斜《ななめ》に空《くう》を切りながら、かちやりと音を立てて交番の窓|硝子《ガラス》へ穴をあけた。その音で気がつくと、自分は依然としてカツフエ・パウリスタのテエブルに坐つてゐる。かちやりと云つたのは、珈琲《コオヒイ》の匙《さじ》が手から皿の上へ落ちた音らしい。自分は黒いモオニングを着た容貌|魁梧《くわいご》な紳士と向ひ合つた儘、眼を明《あ》いて夢を見てゐたのである。紳士は自分が放心から覚めたのを見ると、
「新年の新聞に何か書いてくれませんか。」と云つた。
「この頃は何も書きたくないんだから駄目《だめ》です。」
「そんな事を云はずに何か書いてくれ給へ。何《なん》でもいいのです。たとへば「新技巧派について」と云ふやうなものでも。」
自分はぎよつとした。事によるとこの紳士は自分の夢を知つてゐるのかも知れない。
「それでなければ「旧技巧と新技巧と」はどうです。」
「駄目《だめ》です。第一新技巧などと云ふ事は考へた事もありやしません。」自分はぶつけるやうに云つた。
「しかし何か書けるでせう。」
「書けば、あなたに頼まれて書くと云ふ事を書くだけです。」
「それでもいいから、書いてくれ給へ。」
紳士はポケツトを探《さぐ》つて、原稿用紙と万年筆《まんねんひつ》とを出した。外では歳暮《せいぼ》大売出しの楽隊の音がする。隣のテエブルでは誰かがケレンスキイを論じ出した。珈琲《コオヒイ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》、ボイの註文を通す声、夫《それ》からクリスマス樹《トリイ》――さう云ふ賑かな周囲の中に自分は苦《にが》い顔をして、いやいやその原稿用紙と万年筆とを受取つた。それで書いたのが、この何枚かの愚にもつかない饒舌《ぜうぜつ》である。だから孟浪杜撰《まうらうづざん》の責《せめ》は寧《むし》ろ今自分の前に坐つてゐる、容貌|魁梧《くわいご》な紳士にあつて、これを書いた自分にはない。
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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