朝《すいにんちょう》の貉は、ただ肚裡《とり》に明珠《めいしゆ》を蔵しただけで、後世の貉の如く変化《へんげ》自在を極《きわ》めた訳ではない。すると、貉の化けたのは、やはり推古天皇の三十五年春二月が始めなのであろう。
勿論|貉《むじな》は、神武東征の昔から、日本の山野に棲《す》んでいた。そうして、それが、紀元千二百八十八年になって、始めて人を化かすようになった。――こう云うと、一見甚だ唐突《とうとつ》の観があるように思われるかも知れない。が、それは恐らく、こんな事から始まったのであろう。――
その頃、陸奥の汐汲《しおく》みの娘が、同じ村の汐焼きの男と恋をした。が、女には母親が一人ついている。その目を忍んで、夜な夜な逢おうと云うのだから、二人とも一通りな心づかいではない。
男は毎晩、磯山《いそやま》を越えて、娘の家の近くまで通《かよ》って来る。すると娘も、刻限《こくげん》を見計らって、そっと家をぬけ出して来る。が、娘の方は、母親の手前をかねるので、ややもすると、遅れやすい。ある時は、月の落ちかかる頃になって、やっと来た。ある時は、遠近《おちこち》の一番|鶏《どり》が啼く頃になっても、ま
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