だ来ない。
 そんな事が、何度か続いたある夜の事である。男は、屏風《びょうぶ》のような岩のかげに蹲《うずくま》りながら、待っている間のさびしさをまぎらせるつもりで、高らかに唄を歌った。沸き返る浪の音に消されるなと、いらだたしい思いを塩からい喉《のど》にあつめて、一生懸命に歌ったのである。
 それを聞いた母親は、傍にねている娘に、あの声は何じゃと云った。始めは寝たふりをしていた娘も、二度三度と問いかけられると、答えない訳には行かない。人の声ではないそうな。――狼狽《ろうばい》した余り、娘はこう誤魔化《ごまか》した。
 そこで、人でのうて何が歌うと、母親が問いかえした。それに、貉《むじな》かも知れぬと答えたのは、全く娘の機転である。――恋は昔から、何度となく女にこう云う機転を教えた。
 夜が明けると、母親は、この唄の声を聞いた話を近くにいた蓆織《むしろお》りの媼《おうな》に話した。媼もまたこの唄の声を耳にした一人である。貉が唄を歌いますかの――こう云いながらも、媼はまたこれを、蘆刈《あしか》りの男に話した。
 話が伝わり伝わって、その村へ来ていた、乞食坊主《こじきぼうず》の耳へはいった時、坊主は、貉の唄を歌う理由を、仔細らしく説明した。――仏説に転生輪廻《てんじょうりんね》と云う事がある。だから貉の魂も、もとは人間の魂だったかも知れない。もしそうだとすれば、人間のする事は、貉もする。月夜に歌を唄うくらいな事は、別に不思議でない。……
 それ以来、この村では、貉《むじな》の唄を聞いたと云う者が、何人も出るようになった。そうして、しまいにはその貉を見たと云う者さえ、現れて来た。これは、鴎《かもめ》の卵をさがしに行った男が、ある夜岸伝いに帰って来ると、未《ま》だ残っている雪の明りで、磯山《いそやま》の陰に貉が一匹唄を歌いながら、のそのそうろついているのを目《ま》のあたりに見たと云うのである。
 既に、姿さえ見えた。それに次いで、ほとんど一村の老若《ろうにゃく》男女が、ことごとくその声を聞いたのは、寧《むし》ろ自然の道理である。貉の唄は時としては、山から聞えた。時としては、海から聞えた。そうしてまた更に時としては、その山と海との間に散在する、苫屋《とまや》の屋根の上からさえ聞えた。そればかりではない。最後には汐汲《しおく》みの娘自身さえ、ある夜突然この唄の声に驚かされた。――

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