。……
 かう云ふ行きがかりで、森の仲間と井上の仲間との間には、時折口論が持上がる。それも、唯、口論位ですんでゐた内は、差支へない。が、とうとう、しまひには、それが素《もと》で、思ひもよらない刃傷沙汰《にんじやうざた》さへ、始まるやうな事になつた。
 それと云ふのは、或日、森が、又大事に飼はうと思つて、人から貰つた虱を茶碗へ入れてとつて置くと、油断を見すまして井上が、何時の間にかそれを食つてしまつた。森が来て見ると、もう一匹もない。そこで、この 〔Pre'curseur〕 の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にが腹を立てた。
「何故、人の虱を食はしつた。」
 張肘《はりひぢ》をしながら、眼の色を変へて、かうつめよると、井上は、
「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけ[#「たはけ」に傍点]ぢやての。」と、空嘯《そらうそぶ》いて、まるで取合ふけしきがない。
「食ふ方がたはけ[#「たはけ」に傍点]ぢや。」
 森は、躍起となつて、板の間をたたきながら、
「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござるか。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前《どうぜん》ぢや。」
「身共は、虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」
「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄《みだり》に生類《しやうるゐ》の命を断つなどとは、言語道断《ごんごだうだん》でござらう。」
 二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻《えびさやまき》の柄《つか》に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘《しゆざや》の長物《ながもの》をひきよせて、立上る。――裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。
 この騒ぎを実見した人の話によると、二人は、一同に抱きすくめられながら、それでもまだ口角に泡を飛ばせて、「虱。虱。」と叫んでゐたさうである。

       四

 かう云ふ具合に、船中の侍たちが、虱の為に刃傷沙汰を引起してゐる間でも、五百石積の金毘羅船だけは、まるでそんな事には頓着しないやうに、紅白の幟を寒風にひるがへしながら、遙々として長州征伐の途に上るべく、雪もよひの空の下を、西へ西へと走つて行つた。
[#地から2字上げ](大正五年三月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年3月16日公開
2004年3月9日修正
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