追憶を打ち破つた。
「和本は虫が食ひはしませんか?」
「食ひますよ。そいつにも弱つてゐるんです。」
 Mは高い書棚の前へW君を案内した。

     ×   ×   ×

 三十分の後《のち》、わたしは埃《ほこり》風に吹かれながら、W君と町を歩いてゐた。
「あの書斎は冬は寒かつたでせうね。」
 W君は太い杖を振り振り、かうわたしに話しかけた。同時にわたしは心の中にありありと其処《そこ》を思ひ浮べた。あの蕭条《せうでう》とした先生の書斎を。
「寒かつたらう。」
 わたしは何か興奮の湧き上つて来るのを意識した。が、何分かの沈黙の後《のち》、W君は又話しかけた。
「あの末次平蔵《すゑつぐへいざう》ですね、異国御朱印帳《いこくごしゆいんちやう》を検《しら》べて見ると、慶長《けいちやう》九年八月二十六日、又朱印を貰つてゐますが、……」
 わたしは黙然《もくねん》と歩き続けた。まともに吹きつける埃風の中にW君の軽薄を憎みながら。
[#地から1字上げ](大正十一年十二月)



底本:「芥川龍之介作品集第三巻」昭和出版社
   1965(昭和40)年12月20日発行
入力:j.utiyama
校正:
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