所、一寸《ちよつと》ありさうもないではないか。これが若し虎ぢやなしに、犬だつたら兎《と》に角《かく》。
映画
映画を横から見ると、実にみじめな気がする。どんな美人でもぺチヤンコにしか見えないのだから。
又
映画はいくら見ても直ぐにその筋を忘れて仕舞《しま》ふ。おしまひには題も何もかも忘れる。見なかつた前と一寸《ちよつと》も変りがない。本ならどんなつまらないと思つて読んだものでも、そんなにも忘れる事はないのに、実に不思議な気がする。
映画に出て来る人間が物を云つて呉《く》れたら、こんなに忘れる事はあるまいとも考へて見る。自分がお饒舌《しやべり》だからでもあるまいが。
犬
日露戦争に戦場で負傷して、衛生隊に収容されないで一晩倒れてゐたものは満洲犬にちんぼこから食はれたさうだ。その次に腹を食はれる。これは話を聞いただけでもやり切れない。
「辨妄和解」から
安井息軒《やすゐそくけん》の「辨妄和解《べんまうわかい》」は面白い本だと思ふ。これを見てゐると、日本人は非常にリアリスチツクな種族だと云ふ事を感じる。一般《いつぱん》の種々な物事を見てゐても、日本では革命《かくめい》なんかも、存外《ぞんぐわい》雑作《ざふさ》なく行はれて、外国で見る様な流血革命の惨《さん》を見ずに済む様な気がする。
刑
死刑の時|絞首台《かうしゆだい》迄|一人《ひとり》で歩いてゆける人は、殆《ほとん》ど稀《まれ》ださうだ。大抵《たいてい》は抱《かか》へられる様に台に登る。
米国では幾州か既《すで》に死刑の全廃が行はれてゐる。日本でも遠からず死刑と云ふ事はなくなるだらう。
無暗《むやみ》と人を殺したがる人に、一緒《いつしよ》に生活されるのは、迷惑な話ではある。だがその人自身にとつて見れば、一生を監禁される――それだけで、もう充分なのだから、強ひて死刑なぞにする必要はない筈である。
又
囚人《しうじん》にとつては、外出の自由を縛《しば》られてゐるだけで、十二分の苦しみである。
在監中、その人の仕事迄取りあげなくともよささうなものである。
仮に僕が何かの事で監獄《かんごく》にはいる様な事があつたら、その時にはペンと紙と本は与へて貰ひたいものだ。僕が縄《なは》をなつてみたところではじまらない話ではないか。
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