一心に御唱へなさらぬ?」
 法師は殆ど叱るやうに云つた。が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。
「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」
 男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏を扶《たす》けてゐた。さう云ふ声の雨に交《まじ》る中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……

       六

 それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧《すす》めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、破《や》れ衣《ごろも》の膝を抱へてゐた。すると其処へ侍《さむらひ》が一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路《おほぢ》を歩いて来た。侍は法師の姿を見ると、草履《ざうり》の足を止《と》めたなり、さりげないやうに声をかけた。
「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」
 法師は石畳みに蹲《うづく》まつた儘、たつた一言返事をした。
「お聞きなされ。」
 侍はちよつと耳を澄ませた。が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。侍は口を動かさうとした。しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。
 侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。
「御仏を念じておやりなされ。――」
 法師は月光に顔を擡《もた》げた。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐《ふがひ》ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
 しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。
「内記《ないき》の上人《しやうにん》ではございませんか? どうして又このやうな所に――」
 在俗の名は慶滋《よししげ》の保胤《やすたね》、世に内記の上人と云ふのは、空也《くうや》上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門《しやもん》だつた。
[#地から2字上げ](大正十一年七月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:林めぐみ
1998年12月2日公開
2004年3月16日修正
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