られなかつた。が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。
 暮しのつらいのは勿論だつた。棚の厨子《づし》はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。今では姫君の袿《うちぎ》や袴《はかま》も身についてゐる外は残らなかつた。乳母は焚《た》き物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿《しんでん》へ、板を剥《は》ぎに出かける位だつた。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。
 するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何《いかが》でございませう。就てはこの頃或|典薬之助《てんやくのすけ》が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」
 姫君はその話を聞きながら、六年|以前《まへ》の事を思ひ出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。「唯静かに老い朽ちたい。」……その外は何も考へなかつた。姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、懶《ものうげ》げにやつれた顔を振つた。
「わたしはもう何も入《い》らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」
        *      *      *
 丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸《ひたち》の国の屋形に、新しい妻と酒を斟《く》んでゐた。妻は父の目がねにかなつた、この国の守《かみ》の娘だつた。
「あの音は何ぢや?」
 男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。
「栗の実が落ちたのでございませう。」
 常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。

       四

 男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻の族《うから》と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日|粟津《あはづ》に滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男は鄙《ひな》にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇《ねんご》ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦|一層《
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