う泣いてばかりいちゃあ、仕様ねえわさ。なに、お前さんは紀の国屋の奴さんとわけがある……冗談云っちゃいけねえ。奴のようなばばあをどうするものかな。さましておいて、たんとおあがんなはいだと。さあそうきくから悪いわな。自体、お前と云うものがあるのに、外《ほか》へ女をこしらえてすむ訳のものじゃあねえ。そもそもの馴初《なれそ》めがさ。歌沢の浚いで己《おれ》が「わがもの」を語った。あの時お前が……」
「房的《ふさてき》だぜ。」
「年をとったって、隅へはおけませんや。」小川の旦那もこう云いながら、細目にあいている障子の内を、及び腰にそっと覗きこんだ。二人とも、空想には白粉《おしろい》のにおいがうかんでいたのである。
部屋の中には、電燈が影も落さないばかりに、ぼんやりともっている。三尺の平床《ひらどこ》には、大徳寺物の軸がさびしくかかって、支那水仙であろう、青い芽をつつましくふいた、白交趾《はつコオチン》の水盤がその下に置いてある。床を前に置炬燵《おきごたつ》にあたっているのが房さんで、こっちからは、黒天鵞絨《くろビロウド》の襟のかかっている八丈の小掻巻《こがいまき》をひっかけた後姿が見えるばかりで
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