ある。
 女の姿はどこにもない。紺と白茶と格子になった炬燵蒲団の上には、端唄《はうた》本が二三冊ひろげられて頸に鈴をさげた小さな白猫がその側に香箱《こうばこ》をつくっている。猫が身うごきをするたびに、頸の鈴がきこえるか、きこえぬかわからぬほどかすかな音をたてる。房さんは禿頭を柔らかな猫の毛に触れるばかりに近づけて、ひとり、なまめいた語《ことば》を誰に云うともなく繰り返しているのである。
「その時にお前が来てよ。ああまで語った己《おれ》が憎いと云った。芸事と……」
 中洲の大将と小川の旦那とは黙って、顔を見合せた。そして、長い廊下をしのび足で、また座敷へ引きかえした。
 雪はやむけしきもない。……
[#地から1字上げ](大正三年四月十四日)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1997(平成9)年4月15日第14刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:野口英司
校正:野口英司
1998年2月21日公開
2004年3月13日修正
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