しらふじゃあ、第一腹がすわりませんや。」
「私も生玉子か、冷酒《ひや》で一杯ひっかけようと思っていた所で、御同様に酒の気がないと意気地がありませんからな。」
そこで一緒に小用《こよう》を足して、廊下づたいに母屋の方へまわって来ると、どこかで、ひそひそ話し声がする。長い廊下の一方は硝子障子《ガラスしょうじ》で、庭の刀柏《なぎ》や高野槙《こうやまき》につもった雪がうす青く暮れた間から、暗い大川の流れをへだてて、対岸のともしびが黄いろく点々と数えられる。川の空をちりちりと銀の鋏《はさみ》をつかうように、二声ほど千鳥が鳴いたあとは、三味線の声さえ聞えず戸外《そと》も内外《うち》もしんとなった。きこえるのは、薮柑子《やぶこうじ》の紅い実をうずめる雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の音が、ミシン針のひびくようにかすかな囁きをかわすばかり、話し声はその中をしのびやかにつづくのである。
「猫の水のむ音でなし。」と小川の旦那が呟《つぶや》いた。足をとめてきいていると声は、どうやら右手の障子の中からするらしい。それは、とぎれ勝ちながら、こう聞えるのである。
「何をすねてるんだってことよ。そう泣いてばかりいちゃあ、仕様ねえわさ。なに、お前さんは紀の国屋の奴さんとわけがある……冗談云っちゃいけねえ。奴のようなばばあをどうするものかな。さましておいて、たんとおあがんなはいだと。さあそうきくから悪いわな。自体、お前と云うものがあるのに、外《ほか》へ女をこしらえてすむ訳のものじゃあねえ。そもそもの馴初《なれそ》めがさ。歌沢の浚いで己《おれ》が「わがもの」を語った。あの時お前が……」
「房的《ふさてき》だぜ。」
「年をとったって、隅へはおけませんや。」小川の旦那もこう云いながら、細目にあいている障子の内を、及び腰にそっと覗きこんだ。二人とも、空想には白粉《おしろい》のにおいがうかんでいたのである。
部屋の中には、電燈が影も落さないばかりに、ぼんやりともっている。三尺の平床《ひらどこ》には、大徳寺物の軸がさびしくかかって、支那水仙であろう、青い芽をつつましくふいた、白交趾《はつコオチン》の水盤がその下に置いてある。床を前に置炬燵《おきごたつ》にあたっているのが房さんで、こっちからは、黒天鵞絨《くろビロウド》の襟のかかっている八丈の小掻巻《こがいまき》をひっかけた後姿が見えるばかりで
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