トいたんだ。」
 大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。

        三十三

 俊助《しゅんすけ》はしばらく口を噤《つぐ》んで、大井《おおい》の指にある金口《きんぐち》がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子《テエブル》越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
 俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾《ハンケチ》を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
 俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義《センティメンタリズム》は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子《テエブル》を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散《うさん》らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧《あいまい》な返事を与えながら、帳場の側に立ってい
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