tとうす紫の花を綴っていた。
「だからさ、その然るべき事情とは抑《そもそ》も何だと尋《き》いているんだ。」
 と、大井は愉快そうに、大きな声で笑い出した。
「つまらん事を心配する男だな。然るべき事情と云ったら、要するに然るべき事情じゃないか。」
 が、俊助も二度目には、容易に目つぶしを食わされなかった。
「いくら然るべき事情があったって、ちょいと国府津《こうづ》まで行くだけなら、何も手巾《ハンケチ》まで振らなくったって好さそうなもんじゃないか。」
 するとさすがに大井の顔にも、瞬《またた》く間《ま》周章《しゅうしょう》したらしい気色《けしき》が漲った。けれども口調《くちょう》だけは相不変《あいかわらず》傲然と、
「これまた別に然るべき事情があって振ったのさ。」
 俊助は相手のたじろいだ虚につけ入って、さらに調戯《からか》うような悪問《わるど》いの歩を進めようとした。が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏《いちょう》の並木の下へ出ると、
「君はどこへ行く? 帰るか。じゃ失敬。僕は図書館へ寄って行くから。」と、巧に俊助を抛り出して、さっさと向うへ行っ
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