トいるのを発見した。
「ちょいと上って、御茶でも飲んで行きませんか。」
「難有《ありがと》うございますけれど――」
 初子は嫣然《えんぜん》と笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
「そうですか。じゃすぐに御伴《おとも》しましょう。」
「始終御迷惑ばかりかけますのね。」
「何、どうせ今日は遊んでいる体なんです。」
 俊助は手ばしこく編上《あみあげ》の紐をからげると外套を腕にかけたまま、無造作《むぞうさ》に角帽を片手に掴《つか》んで、初子の後《あと》からくぐり門の戸をくぐった。
 初子のと同じ紫のパラソルを持って、外に待っていた辰子は、俊助の姿を見ると、しなやかな手を膝に揃えて、叮嚀に黙礼の頭《かしら》を下げた。俊助はほとんど冷淡に会釈《えしゃく》を返した。返しながら、その冷淡なのがあるいは辰子に不快な印象を与えはしないだろうかと気づかった。と同時にまた初子の眼には、それでもまだ彼の心中を裏切るべき優しさがありはしまいかとも思った。が、初子は二人の応対《おうたい》には頓着なく、斜《ななめ》に紫のパラソルを開きながら、
「電車は? 正門前《せいもんまえ》から御乗りになって。」
「ええ、あちらの方が近いでしょう。」
 三人は狭い往来を歩き出した。
「辰子さんはね、どうしても今日はいらっしゃらないって仰有《おっしゃ》ったのよ。」
 俊助は「そうですか?」と云う眼をして、隣に歩いている辰子を見た。辰子の顔には、薄く白粉《おしろい》を刷《は》いた上に、紫のパラソルの反映がほんのりと影を落していた。
「だって、私、気の違っている人なんぞの所へ行くのは、気味が悪いんですもの。」
「私は平気。」
 初子はくるりとパラソルを廻しながら、
「時々気違いになって見たいと思う事もあるわ。」
「まあ、いやな方ね。どうして?」
「そうしたら、こうやって生きているより、もっといろいろ変った事がありそうな気がするの。あなたそう思わなくって?」
「私? 私は変った事なんぞなくったって好いわ。もうこれで沢山。」

        二十五

 新田《にった》はまず三人の客を病院の応接室へ案内した。そこはこの種の建物には珍しく、窓掛、絨氈《じゅうたん》、ピアノ、油絵などで、甚しい不調和もなく装飾されていた。しかもそのピアノの上には、季節にはまだ早すぎる薔薇《ばら》の花が、無造作《むぞうさ》に手頃な青銅の壺へ挿《さ》してあった。新田は三人に椅子を薦《すす》めると、俊助《しゅんすけ》の問に応じて、これは病院の温室で咲かせた薔薇だと返答した。
 それから新田は、初子《はつこ》と辰子《たつこ》との方へ向いて、予《あらかじ》め俊助が依頼して置いた通り、精神病学に関する一般的智識とでも云うべきものを、歯切れの好《い》い口調で説明した。彼は俊助の先輩として、同じ高等学校にいた時分から、畠違《はたけちが》いの文学に興味を持っている男だった。だからその説明の中にも、種々の精神病者の実例として、ニイチェ、モオパッサン、ボオドレエルなどと云う名前が、一再ならず引き出されて来た。
 初子は熱心にその説明を聞いていた。辰子も――これは始終|伏眼《ふしめ》がちだったが、やはり相当な興味だけは感じているらしく思われた。俊助は心の底の方で、二人の注意を惹《ひ》きつけている説明者の新田が羨しかった。が、二人に対する新田の態度はほとんど事務的とも形容すべき、甚だ冷静なものだった。同時にまた縞の背広に地味な襟飾《ネクタイ》をした彼の服装も、世紀末《せいきまつ》の芸術家の名前を列挙するのが、不思議なほど、素朴に出来上っていた。
「何だか私、御話を伺っている内に、自分も気が違っているような気がして参りました。」
 説明が一段落ついた所で、初子はことさら真面目な顔をしながら、ため息をつくようにこう云った。
「いや、実際厳密な意味では、普通|正気《しょうき》で通っている人間と精神病患者との境界線が、存外はっきりしていないのです。況《いわ》んやかの天才と称する連中《れんじゅう》になると、まず精神病者との間に、全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通りロムブロゾオの功績です。」
「僕は差別のある点も指摘して貰いたかった。」
 こう俊助が横合《よこあい》から、冗談《じょうだん》のように異議を申し立てると、新田は冷かな眼をこちらへ向けて、
「あれば勿論指摘したろう。が、なかったのだから、やむを得ない。」
「しかし天才は天才だが、気違いはやはり気違いだろう。」
「そう云う差別なら、誇大妄想狂《こだいもうぞうきょう》と被害《ひがい》妄想狂との間にもある。」
「それとこれと一しょにするのは乱暴だよ。」
「いや、一しょにすべきものだ。成程天才は有為《エフィシエント》だろう。狂人は有
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