トしまった。
 俊助はその後を見送りながら、思わず苦笑《くしょう》を洩《もら》したが、この上追っかけて行ってまでも、泥を吐かせようと云う興味もないので、正門を出るとまっすぐに電車通りを隔てている郁文堂《いくぶんどう》の店へ行った。ところがそこへ足を入れると、うす暗い店の奥に立って、古本を探していた男が一人、静に彼の方へ向き直って、
「安田《やすだ》さん。しばらく。」と、優しい声をかけた。

        二十三

 ほとんど常に夕暮の様な店の奥の乏しい光も、まっ赤な土耳其帽《トルコぼう》を頂いた藤沢《ふじさわ》を見分けるには十分だった。俊助《しゅんすけ》は答礼の帽を脱ぎながら、埃臭《ほこりくさ》い周囲の古本と相手のけばけばしい服装との間に、不思議な対照を感ぜずにはいられなかった。
 藤沢は大英百科全書の棚《たな》に華奢《きゃしゃ》な片手をかけながら、艶《なまめ》かしいとも形容すべき微笑を顔中に漂わせて、
「大井《おおい》さんには毎日御会いですか。」
「ええ、今も一しょに講義を聴いて来たところです。」
「僕はあの晩以来、一度も御目にかからないんですが――」
 俊助は近藤《こんどう》と大井との間の確執《かくしつ》が、同じく『城』同人《どうじん》と云う関係上、藤沢もその渦中へ捲きこんだのだろうと想像した。が、藤沢はそう思われる事を避けたいのか、いよいよ優しい声を出して、
「僕の方からは二三度下宿へ行ったんですけれど、生憎《あいにく》いつも留守《るす》ばかりで――何しろ大井さんはあの通り、評判のドン・ジュアンですから、その方で暇がないのかも知れませんがね。」
 大学へはいって以来、初めて大井を知った俊助は、今日《きょう》まであの黒木綿の紋附にそんな脂粉《しふん》の気が纏綿《てんめん》していようとは、夢にも思いがけなかった。そこで思わず驚いた声を出しながら、
「へええ、あれで道楽者ですか。」
「さあ、道楽者かどうですか――とにかく女はよく征服する人ですよ。そう云う点にかけちゃ高等学校時代から、ずっと我々の先輩でした。」
 その瞬間俊助の頭の中には、昨夜《さくや》汽車の窓で手巾《ハンケチ》を振っていた大井の姿が、ありありと浮び上って来た。と同時にやはり藤沢が、何か大井に含む所があって、好《い》い加減に中傷の毒舌を弄しているのではないかとも思った。が、次の瞬間に藤沢はちょいと首を曲げて、媚《こ》びるような微笑を送りながら、
「何でも最近はどこかのレストランの給仕と大へん仲が好くなっているそうです。御同様|羨望《せんぼう》に堪えない次第ですがね。」
 俊助は藤沢がこう云う話を、むしろ大井の名誉のために弁じているのだと云う事に気がついた。それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾《ハンケチ》から、濃厚に若い女性の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を放散せずにはすまさなかった。
「そりゃ盛《さかん》ですね。」
「盛ですとも。ですから僕になんぞ会っている暇がないのも、重々無理はないんです。おまけに僕の行く用向きと云うのが、あの精養軒《せいようけん》の音楽会の切符の御金を貰いに行くんですからね。」
 藤沢はこう云いながら、手近の帳場机にある紙表紙の古本をとり上げたが、所々《ところどころ》好い加減に頁を繰ると、すぐに俊助の方へ表紙を見せて、
「これも花房《はなぶさ》さんが売ったんですね。」
 俊助は自然微笑が唇《くちびる》に上って来るのを意識した。
「梵字《サンスクリット》の本ですね。」
「ええ、マハアバラタか何からしいですよ。」

        二十四

「安田《やすだ》さん、御客様でございますよ。」
 こう云う女中の声が聞えた時、もう制服に着換えていた俊助《しゅんすけ》は[#「は」は底本では「はは」]、よしとか何とか曖昧《あいまい》な返事をして置いて、それからわざと元気よく、梯子段《はしごだん》を踏み鳴しながら、階下《した》へ行った。行って見ると、玄関の格子《こうし》の中には、真中《まんなか》から髪を割って、柄の長い紫のパラソルを持った初子《はつこ》が、いつもよりは一層|溌剌《はつらつ》と外光に背《そむ》いて佇《たたず》んでいた。俊助は閾《しきい》の上に立ったまま、眩しいような感じに脅《おびや》かされて、
「あなた御一人?」と尋ねて見た。
「いいえ、辰子《たつこ》さんも。」
 初子は身を斜《ななめ》にして、透《すか》すように格子の外を見た。格子の外には、一間に足らない御影《みかげ》の敷石があって、そのまた敷石のすぐ外には、好い加減古びたくぐり門があった。初子の視線を追った俊助は、そのくぐり門の戸を開け放した向うに、見覚えのある紺と藍との竪縞《たてじま》の着物が、日の光を袂《たもと》に揺《ゆす》りながら、立っ
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