ル《ふたえまぶた》までが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、潤《うる》んだ光さえ湛《たた》えていた。さっき会場へはいろうとする間際に、偶然|後《うしろ》へ振り返った、俊助の心を躍らせたものは、実にこのもの思わしげな、水々しい瞳《ひとみ》の光だった。彼はその瞳の持ち主と咫尺《しせき》の間に向い合った今、再び最前の心の動揺を感じない訳には行かなかった。
「辰子《たつこ》さん。あなたまだ安田さんを御存知なかったわね。――辰子さんと申しますの。京都の女学校を卒業なすった方《かた》。この頃やっと東京詞《とうきょうことば》が話せるようになりました。」
初子は物慣《ものな》れた口ぶりで、彼女を俊助に紹介した。辰子は蒼白い頬《ほお》の底にかすかな血の色を動かして、淑《しとや》かに束髪《そくはつ》の頭を下げた。俊助も民雄の肩から手を離して、叮嚀《ていねい》に初対面の会釈《えしゃく》をした。幸《さいわい》、彼の浅黒い頬がいつになく火照《ほて》っているのには、誰も気づかずにいたらしかった。
すると野村も横合いから、今夜は特に愉快そうな口を出して、
「辰子さんは初子さんの従妹《いとこ》でね、今度絵の学校へはいるものだから、それでこっちへ出て来る事になったんだ。所が毎日初子さんが例の小説の話ばかり聞かせるので、余程体にこたえるのだろう。どうもこの頃はちと健康が思わしくない。」
「まあ、ひどい。」
初子と辰子とは同時にこう云った。が、辰子の声は、初子のそれに気押《けお》されて、ほとんど聞えないほど低い声だった。けれども俊助は、この始めて聞いた辰子の声の中に、優しい心を裏切るものが潜んでいるような心もちがした。それが彼には心強い気を起させた。
「画と云うと――やはり洋画を御やりになるのですか。」
相手の声に勇気を得た俊助は、まだ初子と野村とが笑い合っている内に、こう辰子へ問いかけた。辰子はちょいと眼を帯止《おびど》めの翡翠《ひすい》へ落して、
「は。」と、思ったよりもはっきりした返事をした。
「画は却々《なかなか》うまい。優《ゆう》に初子さんの小説と対峙《たいじ》するに足るくらいだ。――だから、辰子さん。僕が好《い》い事を教えて上げましょう。これから初子さんが小説の話をしたら、あなたも盛に画の話をするんです。そうでもしなくっちゃ、体がたまりません。」
俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し――大した事はございませんけれど。」
するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄《たみお》が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段《はしごだん》を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。
十一
辰子《たつこ》は蒼白い頬《ほお》に片靨《かたえくぼ》を寄せたまま、静に民雄《たみお》から初子《はつこ》へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨《またが》って、辷《すべ》り下りようとなさるんでしょう。私|吃驚《びっくり》して、墜《お》ちて死んだらどうなさるのって云ったら――ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有《おっしゃ》ったわね。私|可笑《おか》しくって――」
「成程《なるほど》ね、こりゃ却々《なかなか》哲学的だ。」
野村《のむら》はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気《なまいき》ったらないのね。――だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦《ばか》だって。」
部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮《あざやか》になった初子が、ちょっと睨《ね》める真似をしながら、こう弟を窘《たしな》めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧《りこう》か?」
今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目《びもく》の間《あいだ》に閃かせて、
「中位《ちゅうぐらい》。」と道破《どうは》した。
四人は声を合せて失笑した。
「中位《ちゅうぐらい》は好かった。大人《おとな》もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺《けんけんふくよう》すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが――」
その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野
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