ヘ大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸《ガラスど》の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤《ふじ》が、大きく硝子戸を開《あ》けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠《しなどうろう》の光を浴びて、最前《さいぜん》よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞《たくまし》い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利《き》かずにその前を通りすぎた。
「難有《ありがと》うございます。」
大井の後《あと》から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝《おし》まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明《あかる》い硝子戸の前に佇《たたず》みながら、白い前掛《エプロン》の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。
三十四
大井《おおい》は角帽の庇《ひさし》の下に、鈴懸《すずかけ》の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助《しゅんすけ》の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念《しゅうね》くさっきの話を続け出した。
俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗《こと》する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春|扁桃腺《へんとうせん》を煩《わずら》った時に――まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬《やきもち》を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたよう
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