数の輪をかけながら、執拗《しゅうね》い夜に攻められて、心細い光を放っている。と、小さな黄金虫《こがねむし》が一匹ぶうんと音を立てて、飛んで来て、その光の輪にはいったかと思うとたちまち羽根を焼かれて、下へ落ちた。青臭いにおいが、ひとしきり鼻を打つ。
 あの虫のように、自分もほどなく死ななければならない。死ねば、どうせ蛆《うじ》と蝿《はえ》とに、血も肉も食いつくされるからだである。ああこの自分が死ぬ。それを、仲間のものは、歌をうたったり笑ったりしながら、何事もないように騒いでいる。そう思うと、猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、名状しがたい怒りと苦痛とに、骨髄をかまれるような心もちがした。そうして、それとともに、なんだか轆轤《ろくろ》のようにとめどなく回っている物が、火花を飛ばしながら目の前へおりて来るような心もちがした。
「畜生。人でなし。太郎。やい。極道《ごくどう》。」
 まわらない舌の先から、おのずからこういうことばが、とぎれとぎれに落ちて来る。――真木島《まきのしま》の十郎は、腿《もも》の傷が痛まないように、そっとねがえりをうちながら、喉《のど》のかわいたような声で、沙金《しゃきん》にささやいた。
「太郎さんは、よくよく憎まれたものさな。」
 沙金《しゃきん》は、眉《まゆ》をひそめながら、ちょいと猪熊《いのくま》の爺《おじ》のほうを見て、うなずいた。すると鼻歌をうたったのと同じ声で、
「太郎さんはどうした。」とたずねたものがある。
「まず助かるまいな。」
「死んだのを見たと言うたのは、たれじゃ。」
「わしは、五六人を相手に切り合うているのを見た。」
「やれやれ、頓生菩提《とんしょうぼだい》、頓生菩提。」
「次郎さんも、見えないぞ。」
「これも事によると、同じくじゃ。」
 太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの造作《ぞうさ》もなく死んでしまう。――こんな取りとめのない考えが、暗《やみ》の中に鳴いている藪蚊《やぶか》のように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。猪熊の爺は、形のない、気味の悪い「死」が、しんぼうづよく、丹塗《にぬ》りの柱の向こうに、じっと自分の息をうかがっているのを感じた。残酷に、しかもまた落ち着いて、自分の苦痛をながめているのを感じた。そうして、それが少しずつ居ざりながら、消えてゆく月の光のように、次第にまくらもとへすりよって来るのを感じた。なんにしても、自分は死にたくない。――
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夜はたれとか寝《いね》む
常陸《ひたち》の介《すけ》と寝《いね》む
寝《いね》たる肌《はだ》もよし
男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
[#ここで字下げ終わり]
 また、鼻歌の声が、油しめ木《ぎ》の音のような呻吟《しんぎん》の声と一つになった。とたれか、猪熊《いのくま》の爺《おじ》の枕《まくら》もとで、つばをはきながら、こう言ったものがある。
「阿濃《あこぎ》のあほうが見えぬの。」
「なるほど、そうじゃ。」
「おおかた、この上に寝ておろう。」
「や、上で猫《ねこ》が鳴くぞ。」
 みな、一時にひっそりとなった。その中を、絶え絶えにつづく猪熊《いのくま》の爺《おじ》のうなり声と一つになって、かすかに猫の声が聞こえて来る。と流れ風が、始めてなま暖かく、柱の間を吹いて、うす甘い凌霄花《のうぜんかずら》のにおいが、どこからかそっと一同の鼻を襲った。
「猫も化けるそうな。」
「阿濃《あこぎ》の相手には、猫の化けた、老いぼれが相当じゃよ。」
 すると、沙金《しゃきん》が、衣《きぬ》ずれの音をさせて、たしなめるように、こう言った。
「猫じゃないよ。ちょっとたれか行って、見て来ておくれ。」
 声に応じて、交野《かたの》の平六が、太刀《たち》の鞘《さや》を、柱にぶっつけながら、立ち上がった。楼上に通う梯子《はしご》は、二十いくつの段をきざんで、その柱の向こうにかかっている。――一同は、理由のない不安に襲われて、しばらくはたれも口をとざしてしまった。その間をただ、凌霄花のにおいのする風が、またしてもかすかに、通りぬけると、たちまち楼上で平六の、何か、わめく声がした。そうして、ほどなく急いで梯子をおりて来る足音が、あわただしく、重苦しい暗《やみ》をかき乱した。――ただ事ではない。
「どうじゃ。阿濃《あこぎ》めが、子を産みおったわ。」
 平六は、梯子《はしご》をおりると、古被衣《ふるかずき》にくるんだ、丸々としたものを、勢いよくともし火の下へ出して見せた。女の臭《にお》いのする、うすよごれた布の中には、生まれたばかりの赤ん坊が、人間というよりは、むしろ皮をむいた蛙《かえる》のように、大きな頭を重そうに動かしながら、醜い顔をしかめて、泣き立てている。うすい産毛《うぶげ》といい、細い手の指と言い、何一つ、嫌悪《けんお》と好奇心とを、同時にそそらないものはない。――平六は、左右を見まわしながら、抱いている赤子を、ふり動かして、得意らしく、しゃべり立てた。
「上へ上がって見ると、阿濃め、窓の下へつっ伏したなり、死んだようになって、うなっていると、阿呆《あほう》とはいえ、女の部じゃ。癪《しゃく》かと思うて、そばへ行くと、いや驚くまい事か。さかなの腸《はらわた》をぶちまけたようなものが、うす暗い中で、泣いているわ。手をやると、それがぴくりと動いた。毛のないところを見れば、猫《ねこ》でもあるまい。じゃてひっつかんで、月明かりにかざして見ると、このとおり生まれたばかりの赤子じゃ。見い。蚊に食われたと見えて、胸も腹も赤まだらになっているわ。阿濃も、これからはおふくろじゃよ。」
 松明《たいまつ》の火を前に立った、平六のまわりを囲んで、十五六人の盗人は、立つものは立ち、伏すものは伏して、いずれも皆、首をのばしながら、別人のように、やさしい微笑を含んで、この命が宿ったばかりの、赤い、醜い肉塊を見守った。赤ん坊は、しばらくも、じっとしていない。手を動かす。足を動かす。しまいには、頭を後ろへそらせて、ひとしきりまた、けたたましく泣き立てた。と、齒のない口の中が見える。
「やあ舌がある。」
 前に鼻歌をうたった男が、頓狂《とんきょう》な声で、こう言った。それにつれて、一同が、傷も忘れたように、どっと笑う。――その笑い声のあとを追いかけるように、この時、突然、猪熊《いのくま》の爺《おじ》が、どこにそれだけの力が残っていたかと思うような声で、険しく一同の後ろから、声をかけた。
「その子を見せてくれ。よ。その子を。見せないか。やい、極道《ごくどう》。」
 平六は、足で彼の頭をこづいた。そうして、おどかすような調子で、こう言った。
「見たければ、見るさ。極道とは、おぬしの事じゃ。」
 猪熊の爺は、濁った目を大きく見開いて、平六が身をかがめながら、無造作につきつけた赤ん坊を、食いつきそうな様子をして、じっと見た。見ているうちに、顔の色が、次第に蝋《ろう》のごとく青ざめて、しわだらけの眦《まなじり》に、涙が玉になりながら、たまって来る。と思うと、ふるえるくちびるのほとりには、不思議な微笑の波が漂って、今までにない無邪気な表情が、いつか顔じゅうの筋肉を柔らげた。しかも、饒舌《じょうぜつ》な彼が、そうなったまま、口をきかない。一同は、「死」がついに、この老人を捕えたのを知った。しかし彼の微笑の意味はたれも知っているものがない。
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、寝たまま、おもむろに手をのべて、そっと赤ん坊の指に触れた。と、赤ん坊は、針にでも刺されたように、たちまちいたいたしい泣き声を上げる。平六は、彼をしかろうとして、そうしてまた、やめた。老人の顔が――血のけを失った、この酒肥《さかぶと》りの老人の顔が、その時ばかりは、平生とちがった、犯しがたいいかめしさに、かがやいているような気がしたからである。その前には、沙金《しゃきん》でさえ、あたかも何物かを待ち受けるように、息を凝らしながら、養父の顔を、――そうしてまた情人《おとこ》の顔を、目もはなさず見つめている。が、彼はまだ、口を開かない。ただ、彼の顔には、秘密な喜びが、おりから吹きだした明け近い風のように、静かに、ここちよく、あふれて来る。彼は、この時、暗い夜の向こうに、――人間の目のとどかない、遠くの空に、さびしく、冷ややかに明けてゆく、不滅な、黎明《れいめい》を見たのである。
「この子は――この子は、わしの子じゃ。」
 彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、沙金《しゃきん》が、かたわらからそっとささえた。十余人の盗人たちは、このことばを聞かないように、いずれも唾《つ》をのんで、身動きもしない。と、沙金が顔を上げて、赤子を抱いたまま、立っている交野《かたの》の平六の顔を見て、うなずいた。
「啖《たん》がつまる音じゃ。」
 平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、暗《やみ》におびえて泣く赤子の声の中に、かすかな苦悶《くもん》をつづけながら、消えかかる松明《たいまつ》の火のように、静かに息をひきとったのである。……
「爺《おじ》も、とうとう死んだの。」
「さればさ。阿濃《あこぎ》を手ごめにした主《ぬし》も、これで知れたと言うものじゃ。」
「死骸《しがい》は、あの藪中《やぶなか》へ埋めずばなるまい。」
「鴉《からす》の餌食《えじき》にするのも、気の毒じゃな。」
 盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、かすかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。
「阿濃は?」と沙金が言った。
「わしが、あり合わせの衣《きぬ》をかけて、寝かせて来た。あのからだじゃて、大事はあるまい。」
 平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。
 そのうちに、盗人が二人三人、猪熊《いのくま》の爺《おじ》の死骸《しがい》を、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。有明《ありあけ》の月のうすい光に、蕭条《しょうじょう》とした藪《やぶ》が、かすかにこずえをそよめかせて、凌霄花《のうぜんかずら》のにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。
「生死事大《しょうじじだい》。」
「無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
 猪熊の爺の死骸は、斑々《はんぱん》たる血痕《けっこん》に染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深く舁《か》かれて行った。

       九

 翌日、猪熊のある家で、むごたらしく殺された女の死骸が発見された。年の若い、肥《ふと》った、うつくしい女で、傷の様子では、よほどはげしく抵抗したものらしい。証拠ともなるべきものは、その死骸《しがい》が口にくわえていた、朽ち葉色の水干の袖《そで》ばかりである。
 また、不思議な事には、その家の婢女《みずし》をしていた阿濃《あこぎ》という女は、同じ所にいながら、薄手一つ負わなかった。この女が、検非違使庁《けびいしちょう》で、調べられたところによると、だいたいこんな事があったらしい。だいたいと言うのは、阿濃が天性白痴に近いところから、それ以上要領を得《う》る事が、むずかしかったからである。――
 その夜、阿濃は、夜ふけて、ふと目をさますと、太郎次郎という兄弟のものと、沙金《しゃきん》とが、何か声高《こわだか》に争っている。どうしたのかと思っているうちに、次郎が、いきなり太刀《たち》をぬいて、沙金を切った。沙金は助けを呼びながら、逃げようとすると、今度は太郎が、刃《やいば》を加えたらしい。それからしばらくは、ただ、二人のののしる声と、沙金の苦しむ声とがつづいたが、やがて女の息がとまると、兄弟は、急にいだきあって、長い間黙って、泣いていた。阿濃は、これを遣《や》り戸《ど》のすきまから、のぞいていたが、主
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