また》の杖《つえ》を止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。
相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、蟇《ひき》の面《つら》の、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。
小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十|格好《がっこう》の小柄な女が、石を枕《まくら》にして、横になっている。それも、肌《はだ》をおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の汗衫《かざみ》一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、血膿《ちうみ》にまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、天日《てんぴ》のさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐った杏《あんず》のような、どす黒い斑《まだら》があって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。
枕もとには、縁の欠けた土器《かわらけ》がたった一つ(底に飯粒がへばりついているところを見ると、元は粥《かゆ》でも入れたものであろう。)捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つ六《む》つ、泥《どろ》だらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、合歓《ねむ》を一枝立てたのは、おおかた高坏《たかつき》へ添える色紙《しきし》の、心葉《こころば》をまねたものであろう。
それを見ると、気丈な猪熊《いのくま》のばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その刹那《せつな》に、突然さっきの蛇《ながむし》の死骸《しがい》を思い浮かべた。
「なんだえ。これは。疫病《えやみ》にかかっている人じゃないか。」
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の家《うち》で、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」
次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい餌食《えじき》を見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」
老婆は、蛙股《かえるまた》の杖《つえ》にあごをのせて、もう一度しみじみ、女のからだを見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、水気《すいき》を持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡が三《み》つ四《よ》つ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえ通《かよ》っているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪《けんお》の感に、面《おもて》を打たれるような心もちがした。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
老婆は、こう言うと、蛙股《かえるまた》の杖《つえ》をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
老婆は、杖《つえ》の上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
すると、猪熊《いのくま》のばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
次郎は、ちょいと鬢《びん》をかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、
「どこへ行《ゆ》くのだい、おばばは。」と問いかけた。
「真木島《まきのしま》の十郎と、高市《たけち》の多襄丸《たじょうまる》と、――ああ、そうだ。関山《せきやま》の平六《へいろく》へは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」
こう言ううちに、猪熊《いのくま》のばばは、杖《つえ》にすがって、もう二足三足歩いている。
「ああ、行ってもいい。」
次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり気色《きしょく》がわるくなってしまったよ。」
老婆は、大仰《おおぎょう》に顔をしかめながら、
「――ええと、平六の家《うち》は、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、立本寺《りゅうほんじ》の門を左へ切れると、藤判官《とうほうがん》の屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原《よもぎはら》、そのところどころに続いている古築土《ふるついじ》、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人《しびと》のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄《あしだ》をはいている、いざりのこじきに行《ゆ》きちがった。――
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
猪熊《いのくま》のばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた眉《まゆ》の間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、実《み》もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょう未《ひつじ》の下刻《げこく》に、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、一悶着《ひともんちゃく》だろう。」
次郎は、老婆の※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》として説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、猪熊《いのくま》のばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。
「さっき、向こうの辻《つじ》で、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに刃物三昧《はものざんまい》だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、一徹人《いってつじん》だから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、死人《しびと》が犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」
こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「大事《おおごと》にならなければいいが。」
猪熊《いのくま》のばばは、蛙股《かえるまた》の杖《つえ》を早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。
かれこれその時分の事である。楚《すわえ》の先に蛇《ながむし》の死骸《しがい》をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、その蛇《ながむし》を女の顔の上へほうり上げた。青く脂《あぶら》の浮いた腹がぺたり、女の頬《ほお》に落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。
今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより空《そら》に据《す》えながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。
三
猪熊《いのくま》のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀《すざく》の大路《おおじ》を北へ、進まない歩みをはこんだ。――
日中の往来は、人通りもきわめて少ない。栗毛《くりげ》の馬に平文《ひらもん》の鞍《くら》を置いてまたがった武士が一人、鎧櫃《よろいびつ》を荷なった調度掛《ちょうどが》けを従えながら、綾藺笠《あやいがさ》に日をよけて、悠々《ゆうゆう》と通ったあとには、ただ、せわしない燕《つばくら》が、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、板葺《いたぶき》、檜皮葺《ひわだぶき》の屋根の向こうに、むらがっているひでり雲《ぐも》も、さっきから、凝然と、金銀銅鉄を熔《と》かしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その板蔀《いたじとみ》や蒲簾《かますだれ》の後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――
猪熊《いのくま》のばばの言ったように、沙金《しゃきん》を次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあの次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見《りょうけん》に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな媚《こ》びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした
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