けていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、干《ひ》からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、老女の救いを得《う》ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路《こうじ》のそこここに、得物《えもの》をふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
老婆は、血の交じっ
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