ないか。されば、弟の妻《め》をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
 太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴《け》って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊《いのくま》の爺《おじ》はまた、指をふりふり、罵詈《ばり》を浴びせかけた。
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
 老人は、こう唾罵《だば》を飛ばしながら、おいおい、呂律《ろれつ》がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪《ぞうお》を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪《けんお》の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》、猪熊《いのくま》の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、燕《つばくら》が軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
 外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金《しゃきん》に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門《らしょうもん》へ行って、日の暮れるのでも待とう。」
 彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる夜《よ》には、好んで、男装束《おとこしょうぞく》に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子《かわご》へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路《こうじ》を南へ、大またに歩きだした。
 それから、三条を西へ折れて、耳敏川《みみとがわ》の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路《おおじ》へ出た時の事である。太郎は、一町《いっちょう》を隔てて、この大路を北へ、立本寺《りゅうほんじ》の築土《ついじ》の下を、話しながら通りかかる、二人の男女《なんにょ》の姿を見た。
 朽ち葉色の水干《すいかん》とうす紫の衣《きぬ》とが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、小路《こうじ》から小路へ通りすぎる。めまぐるしい燕《つばくら》の中に、男の黒鞘《くろざや》の太刀《たち》が、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。
 太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」

       六

 ふけやすい夏の夜《よ》は、早くも亥《い》の上刻《じょうこく》に迫って来た。――
 月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている京《きょう》の町は、加茂川の水面《みのも》がかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の辻々《つじつじ》にも、今はようやく灯影《ほかげ》が絶えて、内裏《だいり》といい、すすき原といい、町家《まちや》といい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、右京左京《うきょうさきょう》の区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた大寺《だいじ》の内陣で、金泥《きんでい》も緑青《ろくしょう》も所《ところ》斑《はだら》な、孔雀明王《くじゃくみょおう》の画像を前に、常燈明《じょうとうみょう》の光をたのむ参籠《さんろう》の人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を芥火《あくたび》の影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす朱雀門《すざくもん》の古狐《ふるぎつね》が、瓦《かわら》の上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は千本《せんぼん》、南の鳥羽《とば》街道の境《さかい》を尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、夜色《やしょく》の底に埋もれながら、河原《かわら》よもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。
 その時、王城の北、朱雀大路《すざくおおじ》のはずれにある、羅生門《らしょうもん》のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠《こうもり》の羽音のように、互いに呼びつ
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