を見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、水気《すいき》を持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡が三《み》つ四《よ》つ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえ通《かよ》っているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪《けんお》の感に、面《おもて》を打たれるような心もちがした。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
 老婆は、こう言うと、蛙股《かえるまた》の杖《つえ》をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
 次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
 老婆は、杖《つえ》の上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
 すると、猪熊《いのくま》のばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
 次郎は、ちょいと鬢《びん》をかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、
「どこへ行《ゆ》くのだい、おばばは。」と問いかけた。
「真木島《まきのしま》の十郎と、高市《たけち》の多襄丸《たじょうまる》と、――ああ、そうだ。関山《せきやま》の平六《へいろく》へは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」
 こう言ううちに、猪熊《いのくま》のばばは、杖《つえ》にすがって、もう二足三足歩いている。
「ああ、行ってもいい。」
 次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり気色《きしょく》がわるくなってしまったよ。」
 老婆は、大仰《おおぎょう》に顔をしかめながら、
「――ええと、平六の家《うち》は、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、立本寺《りゅうほんじ》の門を左へ切れると、藤判官《とうほうがん》の屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
 二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原《よもぎはら》、そのところどころに続いている古築土《ふるついじ》、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人《しびと》のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄《あしだ》をはいている、いざりのこじきに行《ゆ》きちがった。――
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
 猪熊《いのくま》のばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
 が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた眉《まゆ》の間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。
「そりゃわた
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