すかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。
「阿濃は?」と沙金が言った。
「わしが、あり合わせの衣《きぬ》をかけて、寝かせて来た。あのからだじゃて、大事はあるまい。」
 平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。
 そのうちに、盗人が二人三人、猪熊《いのくま》の爺《おじ》の死骸《しがい》を、門の外へ運び出した。外も、まだ暗い。有明《ありあけ》の月のうすい光に、蕭条《しょうじょう》とした藪《やぶ》が、かすかにこずえをそよめかせて、凌霄花《のうぜんかずら》のにおいが、いよいよ濃く、甘く漂っている。時々かすかな音のするのは、竹の葉をすべる露であろう。
「生死事大《しょうじじだい》。」
「無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
 猪熊の爺の死骸は、斑々《はんぱん》たる血痕《けっこん》に染まりながら、こういうことばのうちに、竹と凌霄花との茂みを、次第に奥深く舁《か》かれて行った。

       九

 翌日、猪熊のある家で、むごたらしく殺された女の死骸が発見された。年の若い、肥《ふと》った、うつくしい女で、傷の様子では、よほどはげしく抵抗したものらしい。証拠ともなるべきものは、その死骸《しがい》が口にくわえていた、朽ち葉色の水干の袖《そで》ばかりである。
 また、不思議な事には、その家の婢女《みずし》をしていた阿濃《あこぎ》という女は、同じ所にいながら、薄手一つ負わなかった。この女が、検非違使庁《けびいしちょう》で、調べられたところによると、だいたいこんな事があったらしい。だいたいと言うのは、阿濃が天性白痴に近いところから、それ以上要領を得《う》る事が、むずかしかったからである。――
 その夜、阿濃は、夜ふけて、ふと目をさますと、太郎次郎という兄弟のものと、沙金《しゃきん》とが、何か声高《こわだか》に争っている。どうしたのかと思っているうちに、次郎が、いきなり太刀《たち》をぬいて、沙金を切った。沙金は助けを呼びながら、逃げようとすると、今度は太郎が、刃《やいば》を加えたらしい。それからしばらくは、ただ、二人のののしる声と、沙金の苦しむ声とがつづいたが、やがて女の息がとまると、兄弟は、急にいだきあって、長い間黙って、泣いていた。阿濃は、これを遣《や》り戸《ど》のすきまから、のぞいていたが、主人を救わなかったのは、全く抱いて寝ている子供に、けがをさすまいと思ったからである。――
「その上、その次郎さんと申しますのが、この子の親なのでございます。」
 阿濃《あこぎ》は、急に顔を赤らめて、こう言った。
「それから、太郎さんと次郎さんとは、わたしの所へ来て、たっしゃでいろよと申しました。この子を見せましたら、次郎さんは、笑いながら、頭をなでてくれましたが、それでもまだ目には涙がいっぱいたまっておりましたっけ。わたしはもっとそうしていたかったのでござりますが、二人とも、たいへんに急いで、すぐに外へ出ますと、おおかた枇杷《びわ》の木にでもつないでおいたのでございましょう、馬へとびのって、どこかへ行ってしまいました。馬は二匹ではございません。わたしが、この子を抱いて、窓から見ておりますと、一匹に二人で乗って行くのが、月がございましたから、よく見えました。そのあとで、わたしは、主人の死骸《しがい》はそのままにして、そっとまた床へはいりました。主人がよく人を殺すのを見ましたから、その死骸もわたしには、こわくもなんともなかったのでございます。」
 検非違使《けびいし》には、やっとこれだけの事がわかった。そうして、阿濃は、罪の無いのが明らかになったので、さっそく自由の身にされた。
 それから、十年余りのち、尼になって、子供を養育していた阿濃は、丹後守何某《たんごのかみなにがし》の随身に、驍勇《きょうゆう》の名の高い男の通るのを見て、あれが太郎だと人に教えた事がある。なるほどその男も、うす痘瘡《いも》で、しかも片目つぶれていた。
「次郎さんなら、わたしすぐにも駆けて行って、会うのだけれど、あの人はこわいから……」
 阿濃《あこぎ》は、娘のようなしな[#「しな」に傍点]をして、こう言った。が、それがほんとうに太郎かどうか、それはたれにも、わからない。ただ、その男にも弟があって、やはり同じ主人に仕えるという事だけ、そののちかすかに風聞された。
[#地から2字上げ](大正六年四月二十日)



底本:「羅生門・鼻・芋粥・偸盗」岩波文庫、岩波書店
   1960(昭和35)年11月25日 第1刷発行
底本の親本:「芥川竜之介全集」岩波書店
   1954(昭和29)年〜1955(昭和30)年
入力:福田芽久美
校正:野口英司
1998年10月4日公開
2004年3月10日修正
青空文
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