しら》が、向きを変える。と、また雪のような泡《あわ》が、栗毛《くりげ》の口にあふれて、蹄《ひづめ》は、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬《かんば》を跳《おど》らせていたのである。
「次郎。」
近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄《はくねんてつ》を打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。
次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった眉《まゆ》に、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。
「早く乗れ。次郎。」
太郎は、群がる犬の中に、隕石《いんせき》のような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤《しった》するような声で、こう言った。もとより躊躇《ちゅうちょ》に、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀《たち》を、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那《せつな》に猿臂《えんび》をのばし、弟の襟上《えりがみ》をつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬の頭《かしら》が、鬣《たてがみ》に月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。
と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺《くらつぼ》へ飛びあがった。とがった牙《きば》が、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛《くりげ》の腹を蹴《け》った。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布《はばき》を食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。
が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も
前へ
次へ
全57ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング