ないか。されば、弟の妻《め》をぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を蹴《け》って去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊《いのくま》の爺《おじ》はまた、指をふりふり、罵詈《ばり》を浴びせかけた。
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
老人は、こう唾罵《だば》を飛ばしながら、おいおい、呂律《ろれつ》がまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪《ぞうお》を集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪《けんお》の情に襲われて、耳をおおうようにしながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》、猪熊《いのくま》の家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、燕《つばくら》が軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金《しゃきん》に会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門《らしょうもん》へ行って、日の暮れるのでも待とう。」
彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる夜《よ》には、好んで、男装束《おとこしょうぞく》に身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子《かわご》へ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路《こうじ》を南へ、大またに歩きだした。
それから、三条を西へ折れて、耳敏川《みみとがわ》の向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路《おおじ》へ出た時の事である。太郎は、一町《いっちょう》を隔てて、この大路を北へ、立本寺《りゅうほんじ》の築土《ついじ》の下を、話しながら通りかかる、二人の男女《なんにょ》の姿を見た。
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