オ肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水《かんすゐ》と淡水とのように、一つに融け合つてゐるものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすつぽんの汁を啜《すす》つた後、鰻《うなぎ》を菜《さい》に飯を食ふさへ、無上の快に数へてゐるではないか? 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。(なほこの間の消息を疑ふものはマソヒズムの場合を考へるが好い。あの呪ふべきマソヒズムはかう云ふ肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加はつたものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏《くわり》の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹《かか》つてゐたらしい。)
 我我の行為を決するものは昔の希臘《ギリシヤ》人の云つた通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿《なか》れ。』耶蘇さへ既にさう云つたではないか。賢人とは畢竟《ひつきやう》荊蕀《けいきよく》の路にも、薔薇の花を咲か
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