かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑ふものである。

       正直

 若し正直になるとすれば、我我は忽《たちま》ち何びとも正直になられぬことを見出すであらう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはゐられぬのである。

       虚偽

 わたしは或嘘つきを知つてゐた。彼女は誰よりも幸福だつた。が、余りに嘘の巧みだつた為にほんたうのことを話してゐる時さへ嘘をついてゐるとしか思はれなかつた。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違ひなかつた。

       又

 わたしも亦あらゆる芸術家のやうに寧ろ嘘には巧みだつた。が、いつも彼女には一籌《いつちう》を輸する外はなかつた。彼女は実に去年の嘘をも五分前の嘘のやうに覚えてゐた。

       又

 わたしは不幸にも知つてゐる。時には嘘に依る外は語られぬ真実もあることを。

       諸君

 諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れてゐる。しかしまづ安心し給へ。諸君ほどは容易に堕落しない。

       又

 諸君は芸術の国民を毒することを恐れてゐる。しかしまづ安心
前へ 次へ
全69ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング