「か? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄《もてあそ》んでゐれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかつたであらう。況やアントニイの眼をやである。
 かう云ふ我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限つたことではない。我我は多少の相違さへ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変へてゐる。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはひるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我我の歯痛ではないか? 勿論我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であらう。しかしかう云ふ自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じやうにきつと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統《す》べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云はば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。
 つまり二千余年の歴史は眇《べう》たる一クレオパトラの鼻の如何に依《よ》つたのではない。
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