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前掲の広告中、「里見君に非難を加へて下さい」と言つたのは勿論わたしの常談であります。実際は非難を加へずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になつたやうであります。同上
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前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言ふのは勿論反語と言ふものであります。同上
芸術
画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞《わうせいてい》の言ふ所である。しかし敦煌《とんくわう》の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲《けみ》した後にも依然として力を保つてゐるらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としてゐることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言ふ言葉に衣冠束帯の人物を髣髴《はうふつ》してゐた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴してゐる。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思はなければならぬ。
又
わたしはいつか東洲斎写楽の似顔画を見たことを覚えてゐる。その画中の人物は緑いろの光琳波《くわうりんは》を描いた扇面を胸に開いてゐた。それは全体の色彩の効果を強めてゐるのに違ひなかつた。が、廓大鏡に覗いて見ると、緑いろをしてゐるのは緑青《ろくしやう》を生じた金いろだつた。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の捉へた美しさと異つてゐたのも事実である。かう言ふ変化は文章の上にもやはり起るものと思はなければならぬ。
又
芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。
又
のみならず芸術は空間的にもやはり軛《くびき》を負はされてゐる。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利《イギリス》の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコツクは我我日本人の音楽にも騒音を感ずる許りだつた。彼の「日本に於ける三年間」はかう言ふ一節を含んでゐる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い鶯の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教へたと言ふことである。それは若しほんたうとすれば、驚くべきことに違ひない。元来日本人は音楽と言ふものを自ら教へることも知らないのであるから。」(第二巻第二十九章)
天才
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
又
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚《た》いてゐる。
又
民衆も天才を認めることに吝《やぶさ》かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗る滑稽である。
又
天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与へられることである。
又
耶蘇「我笛吹けども、汝等踊らず。」
彼等「我等踊れども、汝足らはず。」
嘘
我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる筈はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換へるのは全共和制度の嘘である。この嘘だけはソヴイエツトの治下にも消滅せぬものと思はなければならぬ。
又
一体になつた二つの観念を採り、その接触点を吟味すれば、諸君は如何に多数の嘘に養はれてゐるかを発見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。
又
我我の社会に合理的外観を与へるものは実はその不合理の――その余りに甚しい不合理の為ではないであらうか?
レニン
驚いたね、レニンと言ふ人の余りに当り前の英雄なのには。
賭博
偶然即ち神と闘ふものは常に神秘的威厳に満ちてゐる。賭博者《とばくしや》も亦この例に洩れない。
又
古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似してゐるかを示すものである。
又
法律の賭博を禁ずるのは賭博に依る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯その経済的ディレツタンティズムを非とする為である。
懐疑主義
懐疑主義も一つの信念の上に、――疑ふことは疑はぬと言ふ信念の上に立つものである。成程それは矛盾
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