《けなげ》にも独学をつづけて行つたらしい。これはあらゆる立志譚のやうに――と云ふのはあらゆる通俗小説のやうに、感激を与へ易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考えてゐた。……
 けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与へる代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与へる物語である。彼等は尊徳の教育に寸毫《すんがう》の便宜をも与へなかつた。いや、寧ろ与へたものは障碍《しやうがい》ばかりだつた位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云はなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れてゐる。尊徳の両親は酒飲みでも或は又|博奕《ばくち》打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云ふ艱難辛苦をしても独学を廃さなかつた尊徳である。我我少年は尊徳のやうに勇猛の志を養はなければならぬ。
 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じてゐる。成程彼等には尊徳のやうに下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違ひない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕はしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかつたことを不仕合せの一つにさへ考へてゐた。丁度鎖に繋がれた奴隷のもつと太い鎖を欲しがるやうに。

       奴隷

 奴隷廃止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云ふことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保《ほ》し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さへ、奴隷の存在を予想してゐるのは必しも偶然ではないのである。

       又

 暴君を暴君と呼ぶことは危険だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。

       悲劇

 悲劇とはみづから羞づる所業を敢てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄作用《はいせつさよう》を行ふことである。

       強弱

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒《つうやう》も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するも
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