又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛《なげう》たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に仆《たふ》れる外はない。つまり帝王も王冠の為にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の鼎《かなへ》をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。
恋は死よりも強し
「恋は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとへばチブスの患者などのビスケツトを一つ食つた為に知れ切つた往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数へ挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか、――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであらう。(勿論死に対する情熱は例外である。)且《か》つ又恋はさう云ふもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶《うくわつ》に断言は出来ないらしい。一見、死よりも強い恋と見做され易い場合さへ、実は我我を支配してゐるのは仏蘭西《フランス》人の所謂ボヴアリスムである。我我自身を伝奇の中の恋人のやうに空想するボヴアリイ夫人以来の感傷主義である。
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児《ちやうカタル》の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟《とつさ》の間に餓鬼道の飯も掠《かす》め得るであらう。況や
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